漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 



 ツァーヴェは助手席で小さくなって、声を殺して泣いていたが、次第に我慢ができなくなって、大きな声を上げて泣き始めた。アトレウスはツァーヴェの肩に手を掛け、もう一方の手の指で、零れ落ちてきた涙を拭った。アトレウスは言った。「車を出そう。オルガが一人きりだ」
 白い雪原の上を、アトレウスの車はゆっくりと動きだした。そして次第に速度を上げ、森の中へ入っていった。
 
 オルガの葬儀は、アトレウスが全てを取り仕切って行うこととなった。というのも、オルガやトゥーリには身内と呼べる人間は少なく、しかも長い間没交渉となっていたこともあって、連絡が容易にはつかなかったのだ。唯一連絡が容易くついたのはオルガの姉夫婦だったが、住んでいたのは、陸続きであるとはいえ他国であった。しかも彼女は今体調を崩しているということで、旅をするのは不可能であるということだった。彼女の夫も、丁度仕事で海外に出かけているという。アトレウスはオルガらの残した住所録を調べ、彼らの元同僚らのうちの何人かには連絡をつけたものの、住んでいる場所が遠いため、残念だがこちらには来れないという返事ばかりだった。それでアトレウスは、長い間の付き合いでオルガやツァーヴェが他人とは思えなくなって来ていたし、彼自ら葬儀を仕切ることにしたのだった。そしてツァーヴェの身元も、とりあえずは自分が預かることにした。
 葬儀はごく簡単に済ませた。費用の問題もあったし、参列者も少なかった。それでもアトレウスは町の人々から慕われていたから、皆の助けもあって、それほど惨めな葬儀にはならずに済んだ。オルガは、共同墓地に葬られるという可能性もあったのだが、アトレウスとツァーヴェの強い希望で、彼女の小屋の近くに葬られた。アトレウスがツァーヴェから土地を買い取るという形で、墓を小屋とともに保存することにしたのだ。
 葬儀の後、ツァーヴェは小屋からいくつかの身の回りのものを抱えて、アトレウスのアパートに移った。その中には、彼の宝物を詰めたクッキーの箱も含まれていた。
 アトレウスのアパートは町の中ほどにあった。白い外観が随分と煤けていて、それほど新しくはないアパートだが、部屋は三つあり、二人ならそれなりにゆったりと暮らせそうだった。アトレウスは、見かけによらず結構綺麗好きのようで、部屋はそれなりにきちんと片付いていた。とはいえ、神経質といった感じでもなく、埃はあちらこちらに白く積っている。物が散乱しているのは気になるが、埃はそれほど気にならないらしい。アトレウスは彼の友人と一緒にツァーヴェの小屋から運んできたベッドを部屋の中に運び入れ、一番小さな部屋の中に据えつけた。そしてツァーヴェに、これからしばらくはここがお前のベッドだと宣言した。

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 そうしてどれだけ進んだだろう。ふと、ツァーヴェは低い唸りのような音を聞いた気がした。思わず立ち止まり、伸び上がって、辺りを見渡した。すると遠くに黒いものが見えた。眼を凝らすと、それは確かに動いていて、こちらに向かっているようだった。
 ツァーヴェは息を呑み、信じられない気持ちでさらに伸び上がって眼を凝らしたが、間違いなかった。雪原の上を、一台の黒い自動車がゆっくりとした速度でこちらに向かってくる。そしてその自動車は、ツァーヴェには見覚えのあるものだった。
 あれは、アトレウスの車だ!
 ツァーヴェは疲れを忘れ、必死に車の方を目指した。もし今アトレウスに気付いてもらえなければ、もう自分はここで死んでしまうしかない。そんな切羽詰った気持ちだった。だが、遮るものもない平原だから車はすぐにツァーヴェに気付いたらしく、ゆっくりと方向を変えて、真っ直ぐにツァーヴェを目がけて進んできた。そしてツァーヴェのすぐ近くまで来ると停車し、中から、アトレウスが慌てたように飛び出してきた。
 「ツァーヴェ!」
 アトレウスはそう言って、じっと彼の顔を見た。上気したツァーヴェは、息を荒くしながら、大きく見開いた眼でアトレウスの顔を見ていたが、やがて抑えきれない涙が溢れてきた。そしてじっと突っ立ったまま、顔をくしゃくしゃにして、ぼろぼろと泣き続けた。アトレウスはそんなツァーヴェの肩を抱いて、言った。「大丈夫だ……。ともかく、寒いから車に入ろう」
 アトレウスに促されて助手席に滑り込んだツァーヴェは、それでもしばらくはボロボロと泣き続けていた。アトレウスは黙ってエンジンをかけ、車を出した。
 しばらくはそうして黙ったまま車を走らせていたが、やがてアトレウスが落ち着いた声で言った。「たった一人でこんなところにいるなんて、いったいどうした?」
 ツァーヴェは小さく頷いた。言葉が出てこなかった。
 「お母さんはどうした?きっと心配してるだろう?」
 ツァーヴェは唇を噛み締めた。身体が小さく震えて、止まらなかった。その様子を見ていたアトレウスは車を止めた。そしてツァーヴェが口を開くのを待った。随分してから、ツァーヴェはぽつりと、母が死んだことを告げた。
 「何だって?」アトレウスは明らかに動揺していた。「死んだって……オルガがか?」
 ツァーヴェは頷いた。それから今朝から今までのことを訥々と話した。
 「とりあえず家に行こう」ツァーヴェの話を聞き終えたアトレウスは言った。「とても信じられない気分だが。ツァーヴェ、辛かったろうな。だが、お前も命が危なかったんだぞ。さっきの場所から町までは、まだ随分と距離がある。もしかしたら、道に迷っているうちに日が暮れてしまったかもしれない。そうなったら、もう助からなかっただろう。この辺りの冬の夜がどれほど恐ろしいか、お前だって知っているだろう?今朝、俺はふと気になったんだ。それで、冬が本格的になる前にお前の家に行こうと思い立った。気まぐれを起こして、本当に良かったよ。虫のしらせというやつなんだろうな。お前は運のいい子だぞ。こんな奇跡は、めったにあるもんじゃない。だから、大丈夫だ。神様は、きっとお前を見ていてくれてるんだ」

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 だが長く呆けている余裕はなかった。進むにせよ退くにせよ、出来るだけ早く心を決めなければならない。ツァーヴェは一分ばかり立ち尽くし、ちょっと後ろを振り向いて自分の進んできた道を見詰めたが、そのまま意を決して向き直ると、前に向かって勢いよく雪を蹴って滑り出した。
 平原の雪は一面白く滑らかで、強い照り返しを放っていた。眩しくて眼を細めると、まるで自分が遥か北の海の上を進んでいるような気分になった。もっとも、ツァーヴェは海を見たことはない。ツァーヴェにとって海とは、父がくれた絵本に描かれていた北の海だった。歩きながら、ツァーヴェは絵本の物語を思い出していた。彼が繰り返し読んだ絵本の中の冷たい海の上には、無数の流氷が浮かんでいた。その氷の海の向こうから、一人の男が氷の上を渡って駆けて来るのだ。男はオーロラから海上に滑り落ちたのだった。やがて男は氷を渡って、その果ての大地にたどり着き、出合った白熊と友情を交わし、その地に住みつくようになる。時が経って、あるとき氷の海の向こうから、流氷に乗った一人の女が現れる。女は口がきけないが、美しい娘で、やがて二人は結婚し、息子をもうける。だが、友情を交わしたはずの白熊がそれを面白く思わず、男の眼の前で彼の妻に爪をかけて殺してしまう。そこで初めて男は、妻が実はアザラシであったことを知る。海上で男を見初めたアザラシが、姿を変えて男のもとにやってきたのだった。友と妻を同時に失い、悲しみに沈んだ男は、息子を連れて、さらに流氷に乗って北へ向かうのだ。
 随分と長い時間一心に滑り続けた気がして、ツァーヴェは立ち止まり、辺りを見渡した。そして自分が、本当にただ広い場所の只中にぽつりといるのだということに今更ながら気付き、酷く心細くなった。心なしか、光もやや翳り始めている気もした。もう戻ることは出来ないんだとツァーヴェは自分に言い聞かせ、先に進んだ。心には一抹の余裕もなかった。泣くことさえ忘れて、ただどこかへ辿りつくことだけを願っていた。だが、いくら進んでも先は見えない。何処までも真っ白な世界があるだけだった。

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 風のない穏やかな日とはいえ、気温が氷点下二十度以下であることは間違いなかった。凍りついた世界が小屋の外には広がっていた。ツァーヴェはスキーを履き、目が痛くなるほどに真っ白な雪の上を滑り始めた。スキーは慣れているから、歩くよりも遥かに早く進むことが出来る。十分ほど進んだところで、ツァーヴェは、これなら思ったより早く町にまで辿り付けるかもしれないと思った。だが、道に迷うのは怖かった。それで、近道は避けて、常に道路を進むことにした。それに、道路を進んでいれば、誰かに会わないとも限らない。滅多に車も人も通らない道とはいえ、皆無というわけではない。上手くすれば、町まで車か橇に乗せてもらえるかもしれないと思った。
 深いタイガの森を貫く道路を、ツァーヴェは一心に辿った。道路には轍の跡は一本もなかった。人や動物が踏んで歩いた跡もない。少なくともこのニ日ほどは、誰もここの道路を通らなかったに違いない。まっさらの雪の上をツァーヴェは滑っていった。風がないから、暖かく感じた。懸命に身体を動かしているから、むしろ暑いとさえ感じるほどだ。それで、ツァーヴェは汗をかかないように、少し進む速さを緩めた。低い空から白い太陽の光が照り返し、眩しかった。雪が全ての音を吸い取り、しんと静まり返っていたが、時折森の中から、どさりという樹から雪が落ちる音が鈍く響いた。
 冬は太陽が傾くのが早い。日が暮れてしまうと、もう今日のうちに町へたどり着くことなど不可能になってしまう。ツァーヴェの装備は余りに貧弱で、冬のタイガでは、それはほぼ確実に死を意味した。時間がなかった。ツァーヴェは数時間歩き続け、昼過ぎには短い休憩を取って携帯したものを食べたが、殆ど休むこともなくまた町を目指した。歩きながら、あとどのくらい進めば町に着くのだろうと思った。だが、想像もつかなかった。行けども行けども、風景は全く変わらないように思えた。まるで終わりのない回廊のようだった。ツァーヴェの目にはとっくに余裕は消えて、重い不安が張り付いていた。ツァーヴェは、アトレウスが時々来てくれる距離だから、きっともうそれほど遠くはないはずだと自分に言い聞かせていた。時折、こうして無謀にも外に飛び出してきたことを後悔する気持ちが頭を過ぎったが、すぐに母の死んだ顔と部屋の臭いを思い出して、やっぱりあそこにはいられないと思った。あそこでいるくらいなら、こうして歩きながら死んでしまった方がまだいいかもしれないとさえ思った。それでも、ツァーヴェは決して死にたいわけではなかったから、ただ町までたどり着くことだけを考えるようにした。
 やがて、歩く先が白く開けて見えた。町だろうか、とツァーヴェは思った。足は自然と早くなった。だが、先に広がっていたのがただ広い平原であるということに気づいたツァーヴェは、足を止めてしまった。
 その先には道がなかった。巨大な湖畔のように、一面に平原が広がっていたのだ。道路は雪の下に埋もれ、途切れてしまっていた。ツァーヴェは泣きそうになった。この先どっちの方向に向かえばよいのか分からなかったからだ。

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 母が死んだということはすぐに理解できた。だが現実感がなかった。悲しさよりも、今これから自分が何をすべきなのか、それが考えられなくて戸惑った。勇気を振り絞り、ツァーヴェはもう一度母の身体に触れた。まるでゴムのような感触が伝わってきた。ツァーヴェは怖くなったが、そのまま力を入れて、母の身体を揺さぶってみた。しかし、何の反応もない。汚物の臭いが鼻を刺した。ツァーヴェは手を離し、そのまましばらくそこに立っていた。気が付くと、身体が震え、涙が次々と頬を伝っていたが、悲しいのかどうかもわからなかった。ただ、涙が出て、身体が震えて、止まらないのだった。
 ツァーヴェは部屋を出て、居間のテーブルの前に座った。静かだった。明るい部屋の中は、これまでにツァーヴェが一度も感じたことのないほどの静かさに包まれていた。だが、その静かさは不穏だった。その静かさの向こうから、何かが、ツァーヴェを引き裂こうと伺っているかのようだった。空腹だったが、何かを食べようという気分には到底なれなかった。ただ、不安に身を固くしてじっとその静寂に耐えていた。やがて寒さを感じ、ペチカの火が消えかけていることに気づくと、薪を追加した。時が経ち、午後になって風が出てきた。風が窓を叩いて、鳴っていた。ツァーヴェはテーブルに突っ伏して、息を殺し、その音を聞いていた。やがて夜になった。辺りは闇に包まれた。
 夜になると、恐怖がツァーヴェをさらに苛んだ。ベッドルームにはとても行けなかった。だが、寒いし、さすがに空腹も耐えがたくなってきた。それで、勇気を出してベッドルームへの扉を開けた。嫌な臭いがした。ツァーヴェは息を止めて、母のベッド見ないようにしながら、自分の毛布を掴み、持ち出した。あれほど大好きだった母なのに、後ろから手が伸びて、肩を掴まれるんじゃないかと思うと、怖かった。居間に戻ると、毛布を椅子に掛けて、冷えた煮込みを温めた。かなりの量があったが、よほど空腹だったので、ツァーヴェはそれを綺麗に平らげてしまった。その後、ツァーヴェは毛布を頭からすっぽりと被り、またテーブルの上に突っ伏した。頭の中を色々な考えが巡り、眠りはなかなか訪れなかった。怖さと寂しさに耐えながら、何度も眠ったり起きたりを繰り返し、夜をじっとやり過ごした。翌日も同じような一日を送った。どうすればよいのか、ツァーヴェは迷っていた。外はどんよりとしていて、いつ吹雪いても不思議ではない天気だった。実際、昼ごろからは少し吹雪いた。ツァーヴェはその音に耳を澄ませながら、缶詰を開けて温め、その日初めての料理を作った。隣の部屋に行く勇気はなかったが、何か音がしないか、時折耳を澄ませた。だが、何の音もしない。夜になって、毛布を頭から被ってテーブルに頭を乗せていると、様々な思い出が噴き出してきて、たまらなく寂しくなった。そして、それ以上にこれからどうすればよいのか、全く分からなくて、不安になった。自分もこのままここで死んでしまうのかもしれないと思った。それがとても怖かった。
 朝になった。窓からは、明るい光が部屋の中に差し込んできていた。外を見ると、ここ数日で、最も良い天気だった。風もなく、安定した空模様だった。ツァーヴェは服を着込み、カバンに携帯できる食べ物と水筒を入れると、表に出た。ツァーヴェは町を目指すつもりだった。どれだけの時間がかかるのかわからなかったが、ここにいるのはもう嫌だった。一日中一生懸命に歩けば、何とか辿り着くにちがいない。それに、道を歩いていたら、もしかしたら誰かが通りがかるかもしれない。そしたら助けてもらえる。そうも思った。町に行って、アトレウスと話をしたかった。アトレウスなら、僕を助けてくれるに違いない。ツァーヴェはそう思ったのだった。

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 「まだやっと起きたばかりなのに……」とオルガはうわ言のように言った。「ほんとうにごめんなさいね……」
 ツァーヴェは小さく喉を鳴らした。声が出なかったのだ。彼は母の次の言葉を待ったが、それきりだった。オルガは苦しそうな呼吸をしながら、じっと目を閉じている。随分長い間ツァーヴェは母の傍にいたが、一度も目を開かなかった。ただ、苦しそうな呼吸を繰り返すだけだった。やがてツァーヴェは立ち上がって、とりあえず何かを食べようと居間に戻った。そして昨夜母が作ったらしい煮込み料理を温めて食べた。食べ始めて、自分がいかに空腹だったのかを意識した。
 夢中で食事を終え、一息ついたツァーヴェは、居間に差し込む冬の鈍い朝の光を見詰めた。どこか白っぽくて、閉塞感のある光だった。しんと静かな部屋に、時々隣の部屋から、母の小さな溜息のような声が漏れてきた。ツァーヴェはじっと座ったまま、黙ってその声を聞いていたが、やがて思いついて、窓の方へ歩いた。そして窓から外を見た。
 窓の外の風景は、降り積もった雪に一面白く覆われていた。鈍い太陽に、見渡す限りの風景が、ぼんやりとした白さに浮き上がって見える。ツァーヴェはしばらくその風景を見詰めていたが、やがて窓から離れた。そして宝箱を取りに行き、テーブルに戻って、飽きることなくその中に入っている宝物を眺めていた。隣からは、ずっと母の苦しそうな声が聞こえていた。時々、ツァーヴェは母の傍らに行き、声をかけてみるのだが、母はどこか上の空のようだった。額に手をやると、酷く熱かった。ぞっとするような熱さだった。ツァーヴェは氷嚢に雪を詰めて、母の額に乗せた。だが、氷嚢の中の雪は、見る見るうちに溶けてしまう。ツァーヴェは、何度も何度も氷嚢の中の雪を取り替えるために外と中を往復した。そのこと自体は苦にはならなかったが、次第に力がなくなってゆくように思える母の姿には不安を感じずにはいられなかった。ツァーヴェはアトレウスのことを思った。彼が今ここに来てくれればいいのにと、心底思った。だがそれは望み薄だった。ツァーヴェは不安に、一人で耐えるしかなかった。
 冬の日は長くは持たない。午後も早い時間から、すぐに空は暗くなった。そして長い夜を迎える。ツァーヴェは薄暗い部屋の中に一人で座っていた。やがて日が完全に落ちて、夜の闇が辺りを覆っても、ツァーヴェは黙って一人で部屋の中にいた。ツァーヴェは耳を澄ましていたのだ。隣の部屋から聞こえてくる、母の小さな息遣いに。その音が聞こえている間は、まだ安心できた。母の氷嚢を取り替えること。じっと息を凝らして、神様にお祈りをすること。ツァーヴェに出来ることはその二つだけしかなかった。夜が深くなっていった。やがて、病み上がりということもあり、疲れ果てたツァーヴェはふらふらと自分のベッドに潜り込んだ。そしてそのまま意識が消え失せたかのような、長い眠りに落ちた。
 眩しい光に目を覚ましたのは、もう翌日の昼間近だった。ツァーヴェは最初呆けていたが、ふと気づいて母の声を探した。だが、母の息遣いは聞こえない。一瞬の後、ツァーヴェはベッドから起き上がって、母の傍らに向かった。母は、昨夜最期に見たままに、そこに横たわっていた。だが、奇妙な異臭がする。ツァーヴェは身体が震えた。母の顔を覗き込んだが、その表情は固まったように動かない。ツァーヴェは手を伸ばして、母の頬に触れたが、すぐに手を引っ込めた。母の頬は、あれほど柔らかかった頬は、まるで蝋のように硬かった。母は、既に生きてはいなかった。

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 ツァーヴェは体を捻り、ベッドから這い出た。靴を履いて立ち上がったが、体が頼りない感じで、足元がやや覚束なかった。足が縺れないように気をつけながら歩き、ぐるりと視線を這わせた。明るい部屋の中には、母の姿はない。母のベッドは空だった。きっと隣にいるのだろうとツァーヴェは思った。それで部屋を横切って、隣に通じるドアを開いた。
 果たして母はそこにいた。居間のテーブルに突っ伏して、少し引きつったような奇妙な寝息を立てていた。テーブルの上には、ウォトカの壜とグラスがある。明らかに母は、ウォトカを飲みながら眠ってしまったのだ。ツァーヴェは母に声を掛けようとして、思い留まった。代わりに部屋を横切ってペチカへ向かった。部屋が少し冷えていて、肌寒く感じたのだ。ツァーヴェはペチカの小さな扉を開いて中を見た。火は完全に消えていた。ツァーヴェは中に薪を数本入れて、火を起こした。そしてまた扉を閉めた。
 そうしているうちに、母が目を覚ました。「ツァーヴェ?」と母が言った。
 「うん」母に背中を向けたまま、ツァーヴェは答えた。「おはよう」
 「おはよう。……ああ、すっかり眠ってしまっていたのね。ちょっと寒いわね。ああ、火を入れてくれたのね。ありがとう。今、何時なのかしら」
 時計を見ると、午前十時だった。明るい日とはいえ、冬には違いないから、どこか窓の外は白っぽくて、光の加減だけでは時間は分かり辛かった。そうツァーヴェが言うと、母は頷いた。
 「そうね。もうそんな時間。でも、ここでじっとしているなら時間なんて関係ないようなものね。……ところで、ツァーヴェ、もう大丈夫なの?」
 「大丈夫」ツァーヴェは言った。「もうぜんぜん平気。ちょっとふらふらするけど、ずっと寝てたからするだけ。でも、すごくお腹が空いてるよ。空きすぎて、気持ちが悪いくらい」
 「そう。それはよかったわ。もうすっかりと元どおりね。でも、そんなにお腹が空いたんじゃ、可愛そうね。何か作ってあげるわね」
 そう言って、母は立ち上がろうとしたが、上手く体を起こすことが出来ないようだった。最初ツァーヴェは、まだ母にウォトカの酔いが残っているのかと思ったが、どうもそうではないようだった。それで急いで母の傍らに行き、体を支えようとして驚いた。母の体が熱かった。そう思ってよく見ると、母の顔は赤く、視線もどこか焦点が合っていないようで、それらは明らかに発熱の影響だった。ツアーヴェの病が、母に伝染したに違いなかった。
 「酷い熱だよ」ツァーヴェは母の額に手を当てて言った。「どうしよう」
 「ちょっと風邪をひいちゃったみたいね。……でも大丈夫よ。お母さんは大人だから、すぐに直るわ……」
 「寝てなきゃ」
 「そうね……ベッドに行った方がよさそうね。……ツァーヴェ、ごはんは?」
 「大丈夫だよ。それくらい自分で出来るよ。お母さんは早く寝てて」
 「そう。ごめんね」
 オルガはそう言って何とか立ち上がった。体が酷く重かった。目も霞んで、回っていた。そうした様子のオルガを見て、ツァーヴェは肩を貸した。そしてゆっくりと隣の部屋の母のベッドに向かい、母を何とか横たえた。

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 目覚めは穏やかで、澄みきったような心地がした。辺りは明るく、しんとして、音がなかった。ツァーヴェはじっとしたまま、天井を眺めた。そして少し経ってから、ようやくそこが自分の家であることに気付いた。何年も眠っていたかのような気分だった。小さく鼻を鳴らして、部屋の冷たい大気を吸い込むと、褪めた背表紙の古い本のような、そんな香りが漂っている気がした。
 時間をかけて、ようやく自分が長く病気で伏せていたということを思い出した。何日伏せていたのか、まるで分からない。一週間だろうか。十日だろうか。それともたった一日のことだろうか。いずれにせよ、自分の中から時間の感覚が抜け落ちてしまっていた。時間の流れの外側に放り出されてしまったかのような感覚だ。そして、そのせいだろうか、奇妙な喪失感があった。とても長い旅をしてきて、そしてその旅の中で何かを失ってしまったかのような、そんな感じだった。どうしてそんな風に感じるのかはわからなかった。ずっと生死の境を彷徨っていたから、そんな風に感じるのかもしれない。だが、病に伏せて長い眠りにつく前の自分と、こうして回復して目覚めた自分とでは、確かに少し違う人間であるように思えた。
 だが決して悪い気分ではなかった。熱はすっかりと退いて、ゆっくりと休息を取った身体も軽やかだった。そのように新鮮な気分ではあったが、身体から力が抜けてしまっていて、動く気になれなかった。ツァーヴェは少し頭を動かして、窓を見た。窓からは明るい光が差し込んでいる。その光の様子から、今は朝なのだろうと踏んだ。これだけ明るいのだから、外では眩しい朝の光が、雪に覆われた森を照らしているに違いないとツァーヴェは思った。眠る前に雪が降っていたのを思い出したからだった。
 少しづつそうして眠る前のことを思い出したが、眠っていた最中に見ていた夢のことはどうしても思い出せなかった。夢が思い出せないことは珍しいことではないのだが、その時のツァーヴェにはなぜかそれがもどかしく感じた。今自分が感じている喪失感、例えるならば、まるで自分が半分に薄まってしまったかのような奇妙な喪失感の原因が、その夢にあるように思えて仕方なかったからだった。だが、いくらじっと天井を見詰めて考えても、夢は朝の光の中に霧散してしまって、ひとかけらも思い出せない。もどかしくても、諦めるしかなかった。

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 雪の中に顔を埋めて横たわっていたツァーヴェは、手と膝をついて起き上がった。そしてそのまま呆然と雪の上にぺたんと腰を降ろした。
 雪は冷たくなかった。全く冷たくなかった。ツァーヴェは手で雪を掬って、手の中で握り締めた。雪は小さな球になった。だが、自分の感覚が死んでしまったかのように、冷たさはまるで感じなかった。寧ろ、見詰めていると心地よい暖かささえ感じるほどだった。ツァーヴェは作った雪球を投げた。雪球はふわりと飛んで、音もなく深い雪床の中に消えた。
 ツァーヴェは首を巡らせた。見渡す限り、陰影に富んだ小さな起伏のある雪原が広がっていて、そのただ中に彼はたった一人だった。雪は月の光を仄かに反射して青白く輝いている。雪原の彼方には、空の隅を切り取る黒い森のギザギザの影が見えていた。天を見上げると、そこには巨大な月が煌々と輝いていたが、白金の輝きが余りにも強すぎるせいか、月の大きさが膨れたり萎んだりして見えた。ところがそれほどの月夜なのに、こうして見ていると群青の空には一面に、澄んだ色で輝く星が撒かれているのだった。
 心細さと畏怖する心が入り混じった気持ちで、ツァーヴェは長い時間呆然と空を見上げていた。やがて、不意に柔らかな風がすっと頬を撫でた。すると空にちらちらと輝きながら揺れるものが見えた。北極光だ、とツァーヴェは思った。その光を見ているうちにツァーヴェはようやく我に返り、立ち上がった。もはや見渡す限りの青い世界のどこにも妖精の姿は見えなかったが、雪の上には点々と小さな足跡が残されていた。足跡は、ずっと彼方の森を目指しているようだった。ツァーヴェは思った。あの妖精は確かにお父さんだ。僕には分かる。絶対に間違いない。なのにどうして逃げたりするのだろう。僕が分からないのだろうか。お父さんには僕が分からないのだろうか。そう思うと淋しくなったが、何か理由があるに違いないと思い直した。そうでなければ、あんなふうに僕の家にまでやって来たりしないだろう。そして眠っている僕を誘い出したりはしないだろう。それに、僕がこうしてここにやって来れたのも、きっとあの妖精……お父さんが何か魔法を懸けたからに違いない。そう思うと、ツァーヴェの体の中には気力が戻ってきた。この足跡を辿って行けばきっと妖精に、お父さんに出会うことが出来るだろう。きっとお父さんは、何か理由があって僕には話し掛けることは出来ないけれど、代わりにこうやって僕を誘っているんだ。だから僕は跡を追って行かなければならないんだ。
 ツァーヴェは確信を持ってそう思った。その確信があれば、もう迷うことなどなかった。ツァーヴェは一度だけ振り返り、彼方にぽつりと見える自分の家を見た。家には灯りはない。だが、どういうわけかそこだけ、ぼんやりと闇の中に浮かび上がって見えた。ツァーヴェは母のことを思った。あの家の中で、じっと眠っている母のことを。もしお母さんの目が醒めて、僕の姿が見えなくなっていたら、どれほど悲しむだろうとツァーヴェは思った。きっと、とても悲しむだろう。僕は何か書き置きでもしてくるべきだった。そうツァーヴェは思ったが、もちろんそんなことをしている余裕もなかったし、第一、彼にはまだ満足に文字が書けなかった。しょうがないんだ、とツァーヴェは思った。出来るだけ早くお父さんを捜してくるよ。そして、お父さんを連れて家に帰るから、お母さん、待ってて。ツァーヴェはそう思った。その思いが、母に伝わるように必死で祈った。ひとしきり祈りを終えると、彼はまた前を向き、そして妖精の小さな足跡を追って、雪の中にその素足を踏み出した。

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 途端に眩暈のようなものに襲われて、体中が痺れたような感じがしたが、それはほんの一瞬のことで、気がつくとツァーヴェは窓を超えていた。そして妖精を追って空を舞っていた。自分の意志で飛んでいるのか、それとも風に弄ばれて運ばれているのか、ツァーヴェにはどちらともわからなかった。だが確かなのは、彼方にゆっくりと離れて行く妖精の軌跡を辿るようにして自分が舞っているということだった。ツァーヴェは手を伸ばした。妖精の軌跡は微かに金色に輝いているように見えたから、その美しい色彩に触れたかったのだ。だがその金色の軌跡は彼の手の中で跳ねるようにして散ってしまった。そうこうしているうちにも、ツァーヴェの身体はどんどんと上昇していった。そして彼の家から随分と離れて、そして切り立った崖の向こうへ乗り出していった。遥か眼下に、雪を抱いた森が見えた。その雪が輝いている。彼は首を巡らした。森の向こうは、ざっと開けたアラースの平原だが、そこも一面に雪が柔らかそうに積もり、眩しいくらいの白金に輝いていた。
 空は一面に真っ青だった。見たこともないほどに深いコバルトブルーだった。見あげると中天に、正視できないほどに眩しく輝く月が、驚くほど巨大に見えた。月は白金の光を溢れさせていた。その光に、空はその深く透明な青さの中にきらきらとした輝きの粒子を練りこみながら、渦巻いているかのようでさえあった。
 その光景にツァーヴェは圧倒され、陶酔した。虚空に頼りなく浮かんでいるのに、恐怖は感じなかった。薄い寝間着だけしか身に着けてはいなかったのに、全く寒さも感じない。感じるのはただ心地よさ、月に照らされた雪原の上を渡って行く、夢のような悦楽だけだった。
 ツァーヴェは振り返った。かつて彼がいた家は、遥か後方に小さくなってしまっていた。これだけ離れて自分の家を見ると、その余りの小ささに寂しくなった。あの家の中に母は眠っているのだろう、とツァーヴェは思った。そしてさらに寂しくなった。だが、戻ろうとは思わなかった。ツァーヴェはまた前を見た。すると妖精はさらにずっと彼方へ離れてゆく。ツァーヴェは少し慌てた。なんとしてもあの妖精に追いつかなければならない、なぜならあの妖精はお父さんに違いないのだから、とツァーヴェは思った。追いついて、話をすればきっとお父さんは記憶を取り戻して、僕とママのいる家に戻ってきてくれるはずだ。そうすればまた、全ては上手くゆくに違いない。だから何としてでも。
 随分長い間、そうしてツァーヴェと妖精は眩しいほどに白い平原を眼下に見ながら、飛び続けた。彼方では巨大な月が廻り、空が様々な青さに揺れていた。やがて少しづつ妖精が高度を落とし始めた。それにつれて、ツァーヴェの身体も次第に高度を落としていった。そして妖精はふわりと白い雪の上に降り立ち、小さな足跡をぽつぽつと残しながら走り始めた。それに随分と遅れて、ツァーヴェも光り輝く雪原に倒れこむようにして降り立った。

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 ツァーヴェはよく見ようと窓に額を押し当てた。その妖精(とツァーヴェは思った)は、窓から十メートルほど離れた辺りで頼りなく浮かんでいる。その様子は、これからどこへ行こうかと迷っているかのようにも見えたが、同時に、ツァーヴェを誘っているかのようにも思えた。ツァーヴェにはなぜ妖精がそんな動きをするのか分からなかったが、それでもどうしてもその動きから目が離せなかった。何かが、ツァーヴェの感覚に触れるのだった。
 妖精は今、向こうを向いて浮かんでいたが、時折身体を小刻みに震えさせ、髪を波打たせた。すると風に乗って大きくすっと移動するのだったが、妖精の移動した軌跡には銀色に輝く燐粉のような輝きが残った。その軌跡は、しばらく月の光を反射させながら空中に漂った後に、霧散して消えていった。とても儚くて、美しい光景だった。
 ツァーヴェがじっと見とれていると、それを察したかのようにすっとその妖精が身体を翻し、こちらへ向かって進んできた。妖精は、真っ直ぐにツァーヴェのことを見詰めている。大きな目をした、少女のような貌だったが、どこか現実感を欠いていた。それに、その顔は確かに見覚えがある気がした。誰だったろうと彼は思ったが、それはほんの僅かな時間だった。すぐにそれが誰に似ているのか、はっきと分かったからだ。
 ─お父さん……!
 ツァーヴェは思わず口の中で呟いた。妖精は、両手で何か丸いものを抱えたまま、じっとこちらを見詰めながら浮かんでいる。瞬きさえしない。ツァーヴェには、そこに何の感情も読み取ることができなかった。だが、確かに妖精はこちらを見ていた。そこにどんな感情も読み取る事ができなくても、ただこちらをじっと見詰めているという事実が何よりも雄弁に思えた。
 随分と長い間、ツァーヴェと妖精は見詰め合っていた。どちらも凍りついたように互いを見詰めていた。その均衡を崩したのは妖精だった。不意に妖精は、まるでツァーヴェになど興味を失ったかのようにつっと踵を返し、ゆっくりと移動を始めた。その姿に、ツァーヴェはぐっと顔を窓に押し当てた。何かを叫ぼうとするのだが、声が出ない。そうしている間にも、妖精は銀色の粒子を撒き散らかしながら、平原に向かって離れて行く。父さん、とツァーヴェは心の中で繰り返した。ツァーヴェには確信があった。あの妖精は、きっとお父さんに違いない。姿形は随分とちがっているけれど、きっとそうだ。
 その妖精が離れて行く。ツァーヴェはたまらない気持ちだった。今離れてしまうと、もう二度と会うことができない気がしたからだ。どうしてお父さんは僕に何も言ってくれないのだろう、とツァーヴェは思った。思えば思うほど悲しくなった。その悲しみが耐え切れなくなって、ツァーヴェはもう一つの窓を力いっぱい開いた。

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 煌々とした月の光が目を射った。
 長い間、ツァーヴェは全てを忘れて外の風景に魅入っていた。
 窓の外には、夜空と、それから広がるタイガの森、そして開けたアラースの開けた風景が広がっている。だがその様子は、数日前とはまるで変わっていた。
 ツァーヴェが病に臥せっている間に、雪が随分と積もったらしい。見渡す限り、大地も森も雪で覆われている。新しい、真綿のように柔らかそうな雪だ。その雪が、驚くほどに明るい月の光を反射して、幻のような銀白に輝いていた。
 ツァーヴェは空を見た。空は群青だった。だがそれは単にのっぺりとした群青ではなかった。群青の中に、漆黒とコバルトブルーの色彩が絡みあうように渦を巻いていた。そしてその渦の中心には、これまでに見たこともないほど大きく膨れ上がった丸い月が見えた。膨れ上がった月は白金の円盤のようで、じっと見詰めることが出来ないほどだった。月は深々とした光を空に放って、それで空全体が青く燃えるように渦巻いているのだ。ツァーヴェは今までこんな空は見たことがなかった。オーロラならば見慣れていたが、この空の様子はそれとは全く違っていた。もっと圧倒的だったし、現実にある色彩とは思えなかった。
 ツァーヴェはそっと、彼の家の窓は防寒のため二重になっているのだが、その一つ目の窓を開いた。そしてさらに顔を窓に寄せた。
 さらに月の光がさっと鮮やかになった。すっと夜の香りがした。光の粒子を、唇で受けた気がした。深い時間の中に、心が開かれて行くようだった。その感覚の中に浸り、ツァーヴェは陶酔した。身体が、この月の光の中に溶け込んでゆくようだと思った。明けない夜の中に漂ってゆく。永遠の夜の中に滑り込んでゆく。そう想像することは、不思議と心地よかった。
 もしかしたらお父さんもそうだったのかもしれない、とツァーヴェはふと思った。あの日、お父さんは夜の中に滑り込んでしまったのかもしれない。お父さんが帰ってこないのは、目の前に広がっているこの幻のような月の雪原がそうであるように、この世界とは時折交わるだけの、永遠の夜の中に降りていってしまったからかもしれない。もしそうだとしたなら、普通の世界の中で僕やママがお父さんと再会することは、決してないのだろう。
 お父さん、とツァーヴェは呟いた。たまらなく父に会いたいと思った。というのは、今ならば父に出会うことが出来そうな気がしたからだった。それは直感だったが、確信にも似ていた。
 それからどれくらい窓の外の、渦巻くような空と輝く雪原の光景を見詰めていただろう。ふと視界に、不思議な影が入ってくるのを見た。最初それは華奢な鳥のように思えたが、じっと見ていると鳥とは似ても似つかないものだった。
 それは少女のような貌をしていた。大きさは人とは比べ物にならないほど小さいが、確かに少女の顔を持っていた。だが人と似ているのはそこまでだった。身体は極端に矮小で、黒く細い腕は何か丸いものを腹の辺りにじっと抱え込んでいる。その髪は赤く、繊毛のように細く長く四方に伸びて煙っていた。その髪の様子はどこか綿帽子を思わせたが、実際に役割としてはそれに近いようで、風を受けてふわふわと空を移動する様子はまるで奇妙な種子のようだった。

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 時の隙間に滑り込んだかのようだった。真夜中に目を覚ますことは特別珍しいことではなかったが、その時彼が横たわって見上げた部屋はいつもよりもずっと広く、見慣れない光景に見えた。不思議な色彩の中で、部屋の中の全てに命が宿って、深く静かに呼吸をしているようだった。ツァーヴェはじっと天井辺りの暗がりを見詰めた。だがいくら見詰めても、その闇には果てしがないように思えた。窓から入ってくる光がこれほどに明るいのに、どうしてその光がほんの僅かさえも天井を照らさないのか不思議だった。天井に光をまったく反射しない布地を張り詰めているか、それとも天井が遥かに高い場所にあるか、そのどちらかでなければそんなことは有り得ないはずだった。だがもちろんこの部屋はそのどちらでもない。
 自分の呼吸が聞こえていた。まるで眠っているかのような、深く静かな呼吸。それが耳の奥で響いていた。ツァーヴェはその音に耳を傾けながら、視線を部屋の壁に這わせた。壁には沢山の写真が貼り付けられている。父の写真、母の写真、それから自分の写真。そうした写真に混じって、彼がやっと鉛筆を手にすることが出来るようになった頃に描きなぐった絵も貼り付けられていた。それは母が貼り付けたものだったが、彼自身、いったい自分が何を考えてそうした絵を描いたのか、まるで憶えてはいなかった。
 そうだ、母はどうしたのだろう。ツァーヴェは思った。そして首を巡らして母のベッドを捜したが、そこに母の姿はなかった。トイレにでも行ったのか、それとも居間にまだいるのか、それは分からなかったが、人の気配が感じられないこの部屋にはいないことだけは確かだった。
 今は何時頃なのだろう、とツァーヴェは思った。だが時計が見えないから、時間は分からない。ただ、その空気から、なんとなくとても深い夜なのだろうと思った。きっと真夜中は過ぎているだろう。ママは、もしかしたら居間で眠ってしまったのかもしれない。
 ツァーヴェは起き上がろうとした。母の姿が見えないことで、急に不安になったのだ。それに、もし本当に母が居間で眠ってしまっているのなら、起こしてあげなければ身体に障るだろう。そう思った。
 だが、起き上がろうとするのだが、どういうわけだか不思議な感じだった。身体がどこか痺れたような感触があるのだった。これほど頭が冴え渡って、身体も軽く感じるのに、どうしてそうした感触があるのだろうと思った。だが、そうした感触はきっと長い間眠っていたせいなのだろうと思った。
 半ばほど身体を起こした時、ツァーヴェは思った。でも、それにしても部屋は明るすぎる。今日が満月で、空が晴れ渡っていたとしても、これほどには明るくはないはずだ。この明るさは、やっぱりどこか奇妙だ。いったい、この光はどこから来るものなのだろう。
 ツァーヴェは窓を見あげた。そして身体を起こして窓に取り付き、外を見た。

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 頬に柔らかい光の滑らかな暖かさを感じて、ツァーヴェは目を開いた。
 青白く澄んだ光が頬を照らし、部屋を照らしていた。くっきりと明るいのに、じっと見詰めていると次第に朧になって、だんだんと捉えどころがなくなってくるその光は、確かに夜の光だった。光は、ツァーヴェの眠っているベッドの近くにある窓から差し込み、床を照らし出している。
 部屋の中には音がない。耳を澄ましても、しんと静まり返っていて、どんな音も聞こえない。
 それから動くものもない。光も揺れない。時間が凍りついたように、全てが穏やかに留まっている。空気も無口に息を潜めて、乱れない。部屋の中は、ひんやりとはしているが、それでも寒くはない。皮膚に感覚がなくなってしまったかのようだった。
 ツァーヴェはしっかりと目を開いた。誰もが驚くほどの深い黒さを持った、その大きな瞳を。
 身体がとても軽いような気がしたし、頭もすっと冴えていた。だが、実際には容易く身体を動かす気にはなれなかった。そしてしばらくそうしてじっと横たわったまま辺りの光景を見ていた。
 どうしてこんなに部屋の中が明るいのだろう、とツァーヴェは思った。もちろんそれは昼間の明るさとは違う。部屋の中の大部分は暗くて、幾ら目を凝らしても捉えられない。だが、窓から差し込んで来る光は、ただの月明かりにしては余りにも鮮やか過ぎるように思えた。太陽の光を反射して輝いているのが月だということを、ツァーヴェはかつて聞いたことがある。ならば、太陽の光がとても激しくなったのかもしれないとツァーヴェは思った。
 それとも、とツァーヴェは思った。そうだ、僕は熱を出して気を失ったんだ。ずっと長い時間吐き続けていたんだ。憶えている。あれはいつのことだったのだろう。もしかしたら、遥か昔のことなのかもしれない。
 だから、そうだ、僕はもう死んで、こうして意識だけが残っているのかもしれない。
 ツァーヴェはそう考えて、はっとした。それから恐る恐る手を動かして、自分の身体に触れてみた。身体は確かにそこにあった。その感触は確かに現実のもののように思えた。

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 ようやく少し落ち着くと、オルガはツァーヴェの口元を布で拭った。そして彼を静かにベッドに横たえると台所に取って返し、器と水と熱さましの薬を持ってまたやってきた。ツァーヴェは何とかその水で口をゆすいだが、少しでも水を飲もうとすると吐き気が襲ってきて、薬を飲むことができなかった。それでオルガはひとまず薬を飲ませることは諦めた。ツァーヴェはまた崩れるようにベッドに横たわった。オルガは器やツァーヴェの吐瀉物などの始末を終えると、椅子を持ってきてツァーヴェのベッドの傍らに据えた。そしてそこに座って、ツァーヴェの手を軽く握ってやった。だがツァーヴェの手はオルガの手から逃れた。ツァーヴェにはもう意識らしい意識がなかったのだ。それからツァーヴェは長い時間熱にうなされ、様々な幻覚や幻聴に襲われていたが、いつしか眠りに落ちていった。
 オルガはツァーヴェが眠ったのを見ると、そっと濡れたタオルを額に当ててやった。そうして、荒い息をしながら眠っているツァーヴェの顔をじっと見ていた。ツァーヴェの顔が苦痛に時折歪み、ふと短いうわごとを漏らすこともあった。その言葉にオルガは静かに答えながら、しかしそれ以上には為す術もなかった。このまま高熱が続いたらどうすればいいのだろう、この子は果たして高熱に耐えることができるのだろうか。オルガは考えたが、答えなど見つかるはずもなかった。医者に頼りたい、とオルガは思ったが、電話がない以上、呼ぶ方法がなかった。どうしても呼びたければ、町にまで出かけてゆくしかない。だがここから町に行くのは容易くはなかった。ここから町までは、五十キロはある。乗り物がないのだから歩くしかないのだが、簡単に歩ける距離ではない。それに、夜のタイガをたった一人で歩くなんて、自殺行為以外の何者でもなかった。もし運良く途中で通りすがりの車に出会えたとしても、女性が一人で歩くリスクは余りにも大きい。それに、運良く町まで乗せてくれる人に出会えたとしても、往復には相当の時間がかかるから、その間はツァーヴェをたった一人で残しておかなければならなくなる。その間にもし何かがあったら、誰にも対処できないのだ。
 オルガは祈った。その時点で、それ以外に出来る事など彼女にはなかった。オルガは神に祈り、森の精霊に祈り、それからトゥーリに祈った。アトレウスにも、どうか私たちの状況を察して来てくださいと祈った。こんなにあなた方から遠く離れた場所で私たちは不安に慄いています、どうかお救いください、と祈った。長い時間、じっと祈りつづけた。祈っているうちに、窓から入って来る日の光が色を持ちはじめ、部屋の中が次第に暗くなっていった。日が暮れつつあったのだ。それでもオルガは灯りも点さず、じっと祈っていた。

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