漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

鬼灯の木が

2008年01月15日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 鬼灯の木がある。たわわに鬼灯の実が成っているから鬼灯の木だとわかる。だが普通の鬼灯の木ではない。大きさがまるで違う。鬼灯の木というより、むしろ銀杏の木に見える。それくらい大きな木である。そしてその枝には、数え切れないほどたわわに、オレンジ色の鬼灯がぶら下がっている。その様子は、風が吹くと一斉に揺れて、綺麗な音色を鳴らしそうなほどだ。
 古い家の敷地にその木はある。煤け、壊れかけた塀のすぐ側にある。私は首を回して、家を見る。家も煤けた木で出来た平屋である。沢山の窓ガラスがあり、すべてが光を歪めて通す波ガラスだ。窓の奥は暗くてよく分からないが、時々何かが動くような気配がある。誰の家なのか、通りすがりなのでわからないが、その動く気配はきっとこの家の人のものなのだろう。だとすれば、こうしてそっと忍び込むようにして入り込んできた私の姿を訝しく思って見ているのかもしれない。私はその暗い波ガラスに向かって軽く会釈してみる。だが、何も答えはない。気配ばかりがあって、音さえ聞こえては来ない。
 私はまた上を見上げる。幾千にも千切れた雲が空にある。それを背景にして、何百もの橙色の鬼灯が見える。どの鬼灯も丸く膨れて、今にも弾けそうに見える。だが、どれだけ捜しても弾けた鬼灯はない。地面にも、一面にぼんやりとした色彩の苔が見えるだけで、ただの一つも落ちた鬼灯の実は見当たらない。
 そうして聳え立つ鬼灯の木を見ていると、ふと視線を感じて、振り向くとそこには一人の初老の女性の姿があった。私はこの家の人なのかと思い、慌てて会釈をしたが、その女性も軽く会釈をしたかと思うと、咎めるようなことは何も言わずに私の側に並んでやはり鬼灯を見ている。そして、立派な鬼灯ですねえとか言っている。はあ、と私は答え、これは随分と古い木なんでしょうねえと聞いて見た。すると彼女は、ええ、きっと随分と古い木でしょうねと答えた。なるほどこの女性さえいつからあるのか知らないほど昔からある木なのかと私は思い、それでは貴女にはこの木についての思い出なども沢山あるのでしょうねと言ってみた。するとその女性は、ええ、あるといえばありますが、それほど大したものでもありませんと答えた。なるほどそうですか、案外そんなものなんでしょうかねと私は言い、ついで、この鬼灯で遊んだりはしたのでしょうねと訊いてみた。すると彼女は不思議そうな顔をして、いいえ、そんなことはありませんと言う。一度もないのですか、と私が訊くと、彼女は不思議そうな顔をして、そうです、だって、この鬼灯は決して下に落ちては来ませんものと答えた。
 よくよく聞くと、彼女はこの家の人ではなかった。近所に住んでいて、通りすがりに、時々この鬼灯の木を見上げるだけなのだという。私は彼女に、自分は此の辺りのものではなく、ただの通りすがりで、余りに不思議な鬼灯を見て思わずふらりとこの敷地に入ってきたのだと言った。そうして彼女に聞いたところによると、この鬼灯が爆ぜたり落ちたりするところを見たことは一度もないのだという。だがそれは彼女だけが見たことがないのではなく、多分誰も見たことがないのだろうということだった。ただ一つ分かっている事は、或る夜、誰も見ていない時を見計らうように鬼灯が一斉に鬼灯が爆ぜて、それからの数日はこの家の中で様々な気配がするのだということだけだった。だが鬼灯の爆ぜた種はどこにも見当たらず、樹々には揺れるオレンジ色の袋だけがぶら下がり、次第に枯れて、風と共に消えてしまうらしい。
 彼女が去った後も、撲はその言葉を信じきれずに、数時間じっとそこに佇んで見上げていた。だが辺りがすっかり暗くなっても、鬼灯はただの一つも爆ぜる事はなかった。


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2 コメント

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Unknown (手放しぺん転草)
2008-01-18 12:34:26
なんだかしずかな感じが好きだなぁ


>数日はこの家の中で様々な気配がする。。。

その気配を想像してたら百鬼夜行が起こる気がします。
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Unknown (shigeyuki)
2008-01-18 21:42:30
静かな感じが結構雄弁だったりね。

ぺんぺんさんの書くものは、
喧騒の中にそこはかとない哲学性がありますよね。
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