漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

ビスケット・フランケンシュタイン

2012年08月28日 | 読書録

「ビスケット・フランケンシュタイン」 日日日著
メガミ文庫 学習研究社刊



「うそつき ~嘘をつくたびに眺めたくなる月~」 日日日著
角川文庫 角川書店刊

を一気に読む。
なんだか長期連載を望めそうもないマンガみたいで、どちらもいまいち。

「ビスケット」はフランケンシュタインテーマ。
最後で「そうくるか」とは思ったが、逆に白けた気もした。

「うそつき」は以前に読んだ「ちーちゃん」の続編。
三部作の二番目だが、独立した作品。でも前作のように「ん?」と興味をひくところはなかったように思う。

古座間味ビーチ

2012年08月27日 | 近景から遠景へ

 慶良間諸島の座間味島、古座間味ビーチにて。
 結局ちゃんと海に入れたのは一日だけで、写真も少ししか撮れなかったが、旅行自体は楽しかったから、よしとしよう。
 当たり前だけれども、三浦の海とは随分違うなと、改めて実感しました。
 ただ、シュノーケリングで見れる範囲のサンゴは、かなり白化してましたね。ダイビングで、もっと元気なサンゴを見たかったものです。

沖縄

2012年08月25日 | 近景から遠景へ

 今日の夕方、旅行先の沖縄から帰ってきた。
 出発は20日の月曜日だったが、出発の前の週の段階ではずっと晴れの予報だったのに、当日になって台風14号接近を知った。そりゃないよ、という気分だったが、直撃するわけではなさそうだしと、とりあえず出発した。もしかしたら逸れるかもしれないと願いながら。
 ところが、現地についてさらに台風15号の接近を知り、絶望的な気分になった。しかも、24日から25日にかけてが最接近の予想で、直撃とか。その時点では、とりあえずは晴れているし、翌日も晴れだというので、予定通りに翌日の朝にフェリーで慶良間諸島の座間味へと向かったが、これ以降、常に天気予報と飛行機の運行予定をチェックし続けることになった。
 座間味では、当初の予定では三泊だったが、宿の人に、「船はちょっと波が高くなるとすぐに止まるし、明日を逃すと、もう週が明けるまで船は出ないかもしれない。今度の台風はとても大きくて、多分、電柱が折れるくらいになるでしょうね。この(フロントとして使っている)プレハブも、なくなるでしょうね。戻った方がいいと思いますよ」と脅され、一泊だけして本島に戻った。以前、大きな台風で宿の屋根が吹き飛んだことがあるそうだが、今回はそれ以上の規模の台風になりそうだというのだ。そう言われて、島に残るわけにはゆかない。閉じ込められてしまっては大変だし、地元の人にも迷惑をかけることになる。
 結局、旅行中は時折スコールのような雨にはあったものの、大きな天気の崩れもなかったが、きちんと海に入れたのは21日だけ。後になって思うと、その気になれば、ダイビングなどはまだ翌日あたりは楽しめたのだろうが、先が見えない状態だったので、慌てて宿を手配しなおしたり、予定を考えなおしたりするので精一杯だった。それに、帰りの飛行機のことが、ずっと頭の端にあった。
 翌日からの二日間は、レンタカーを借りて沖縄本島を北の先から南の先まで回った。見る場所はひととおり見たし、少しは海にも入ったし、充実はしていたと思う。ただ、やっぱりゆっくりと慶良間で海に浸りながら過ごすことができなかったのは残念。ちなみに、写真は本島の新原ビーチ。本島で見たビーチの中では、いちばん綺麗だった。
 最後まで気をもんでいた飛行機だったが、台風の動きが異常に遅くて、なんとか飛び、東京に予定通り戻ることができた。だが、まさにこれからが本番の台風15号は、沖縄観測史上最大とも呼ばれる巨大台風ということで、現地の方々のことが気にかかる。被害が少なければいいのだけれど。。。
 

ちーちゃんは悠久の向こう

2012年08月20日 | 読書録
「蛍女」 藤崎慎吾著
ハヤカワ文庫JA 早川書房刊

を読む

 自然界がひとつの意思を持つ生体ネットワークを形成しているという、ニューサイエンス的なアイデアを元にした小説。小説としてはやや平面的で、この作品を踏まえて大作「ハイドゥナン」が生まれたという印象。

「ちーちゃんは悠久の向こう」 日日日(あきら)著
角川文庫 角川書店刊

を読む。

 おかしな名前の作家なので、ちょっと気になって読んでみた。この作品がデビュー作ということだが、デビュー以来新人賞五冠に輝いたという。
 ライトノベルなんだろうと思って読み始め、確かにライトノベルではあるのだけれど、文章は悪くない。内容も、多少現実離れした軽さがあるものの、悪くない。この、「嫌いじゃない」という感じ、何だろう。森田季節なんかと同じような感覚。これを現役高校生で書いたというのは、才能があるのは間違いない。
 この作品は、独立した作品だが、三部作を形成しているらしい。残りも読んでみよう。

猫のゆりかご・・・序文(5)

2012年08月17日 | 猫のゆりかご
 わたしは乞われるままに立ち上がり、彼の後に付いて、たくさんの本がある部屋の中に入ったが、その部屋の窓に映る光景は、単に先ほどと同じ光景を十フィートほど高いところから見ているだけにすぎなかった。
 「座ってくれ」と彼は促した。そして最後にわたしを強い眼差しで見つめると、自分は部屋のいちばん離れたところに座って、ぐっと抑えた声で言った。
 「きみはこれまでに猫の文化について考えたことはあるか?」
 「いいえ」わたしはつつましく言った。
 「ぼくはある。そのテーマに深く取りつかれてきたんだ。この八ヶ月のあいだ、ぼくはこの研究に身を捧げてきた。たぶん、どうしてぼくがこのテーマを取り上げることになったのかをかいつまんで話すことから始めるのが、いちばんいいと思う」
 「そうね」わたしは言った。
 「オックスフォードをやめてから、ぼくは大使館に勤務するようになった。理由は特にないが、語学ができたのでね。それに父がが、ぼくが全く大英帝国に対して無関心なものだから、ポルトガルやハンガリーに派遣されることがあったとしても、大した影響はないんじゃないかと考えたせいかもしれない。ぼくはその生活がとても嫌だった。うんざりしていたし、ホームシックにかかっていた。外国人はぼくをイライラさせたし、風土病にもかかった。そうして、アンカラの大使館に配属されたとき、ぼくは恋に落ちた。大使館付きの海軍武官夫人が雌のシャム猫を購入したんだ。猫は美しく、センシティブで、その真価を認められていなかった。堅苦しくて退屈な大使館生活は、ぼくがそうであるように、彼女にとっても肌に合わなかった。ぼくたちは共に尊大だったが、どちらも幸せではなかった。尊大さでは補えぬほど、ぼくたちは不幸せだったのだ。次第に、一進一退の複雑な過程を経て、視線を交わしあい、沈黙を溶かし、深い恋に落ちた。ある夜、横になって、ひとつのナイトクラブから別のナイトクラブへと移動する旅行者の叫ぶ声や、退屈なムアッジン(訳注:イスラム教の祈祷時間の告知係)の声といった、絶えることのない街の喧騒に耳を傾けていたとき、彼女がぼくの部屋のバルコニーの中に飛び込んでくるが見えた。彼女は月光の中に佇み、身体のバランスをりながら、石鹸の泡みたいに少し揺れていた。それから喜びの叫び声を上げ、騒々しく情熱的に、ベッドの上へと飛び込んできただ。
 「それからというもの、彼女はぼくと一緒に住むようになった。おのずから、そのことについてはかなり色々と言われた――大使館員はゴシップが大好きなのでね。そして海軍武官夫人は大騒ぎを起こし、彼女を取り戻そうとした。だが、ハルに骨に届くくらい深く引っ掻かれた上に、コーヒーサービスを壊された挙句、夫人は何をやっても無駄だと悟り、譲歩したんだ。

"The Cat's Cradle-Book"
Written by Sylvia Townsend Warner
(シルヴィア・タウンゼンド・ウォーナー)
Translated by shigeyuki


猫のゆりかご・・・序文(4)

2012年08月10日 | 猫のゆりかご
 わたしたちは長い石畳の廊下を歩んでいった。その突き当たりには、ずっしりとした閂と鍵前の付いた大きな扉があって、まるで聖ペテロが立っていて開いてくれる門(訳注:聖ペテロの門は、天国への入り口を指す)のようだった。庭を横切って、わたしたちは家畜小屋へと入った。家畜小屋の中は四つに間仕切られていた。そのうちの二つにはクリ材の丸太が積まれ、木槌と楔が隅に転がっていた。3つ目の仕切りの中には、sawingcradle(訳注:のこぎり台?)と自転車があった。ミセス・オトゥワディは半分の高さの壁の上を飛び越え、身体をくねらせるようにして柵をすりぬけると、先回りをして四つ目の仕切りに入った。わたしたちがそこに足を踏み入れた時には、彼女はすでに横向きになって転がっており、三匹の汚らしい毛むくじゃらのチビ助たちのためにお腹を伸ばして、恍惚とした虚ろな瞳で上の方を見つめていた。
 「オトゥワディには三匹、メリュジーヌ(訳注:フランスの水妖)には五匹、子供がいる……猫は二十八匹いると言うべきだったね」若者は言った。「だが、魚屋にはこいつらのことも計算に入れて注文は出してあるよ」
 ミセス・オトゥワディのちっぽけなみすぼらしい顔、その威厳に満ちた自由奔放な態度の中には、言葉では言い表すことのできない充足感が浮んでおり、わたしたちはしばらくそこに佇んで、その母性に見惚れていた。やがて彼女は寝返りを打って、三匹の仔猫たちを抱え込むと、舌で舐め始めた。わたしたちが家畜小屋を後にしたとき、彼女は眠たそうな声で語っていた。
 「むかしむかし、一本の骨を盗んだ犬がおりました……」
 若者は振り返り、わたしに刺すような視線を送った。
 「イソップかしら?」私は言った。
 「そのことについては、お茶を飲みながら話をしよう」
 だが彼はその約束を守らなかった。彼は突然黙りこんだ。お茶を用意すると、曇った鏡に伸び放題の芝生とその背後の木々が映しだされているリビングルームに運んだ。わたしはさらに数匹の猫たちを紹介された。人懐っこい金色の若いトラ猫と愛想のない銀色のトラ猫、耳の聞こえない、堂々とした白猫。その他のことに関しては、わたしたちは社交的な言葉を短く交わしただけだった。そうしながらわたしは窓の外を眺め、自分がこの熟しすぎた西洋梨のような家を柵越しに観察しようと自動車を止めてから、なんとまだ一時間も経っていないのに、いまではこうしてその家の中で、ピンクのティーカップを使って中国茶を飲んでいるのだ、と考えていた。窓の外を眺めていると、若者はわたしを見つめた。視線は、実際のところ、余りにも柔らかい言葉だった。彼は見つめていた。熱心に、しっかりと、探検家が地図をじっと見るように、あるいは鉱物学者が鉱石をじっと見つめるように、あるいは猫がネズミ穴をじっと伺うように。
 お茶を飲み終え、話が途切れた時、彼は立ち上がり、言った。
 「一緒に上に来てくれないか」

"The Cat's Cradle-Book"
Written by Sylvia Townsend Warner
(シルヴィア・タウンゼンド・ウォーナー)
Translated by shigeyuki



猫のゆりかご・・・序文(3)

2012年08月07日 | 猫のゆりかご
 「彼女がそう言ったわ」
 「アイリッシュの家族が、ノーフォークに落ち着いたんだ。つまり、オトゥワディの先祖だよ。なあ、猫ちゃんたち、そんなにカリカリしないでくれよ。キャスパー、オウリー、ヘンリエッタ、それから、ロンドン・オトゥワディ(訳注:オトゥワディには、ごますりという意味もある)」
 「なぜロンドンなの?」
 「霧みたいな色をした、雄の虎猫だからさ。こいつらは秋に一緒に生まれたんだ。ぼくはこいつらを、ここにやってきてすぐに、うっちゃられていた豚小屋で見つけたんだ。山猫みたいに、栗の実やどんぐりを食べていたよ」
 「他の仔猫たちは?」
 「トムとマーサっていう、双子の灰色猫の父親は、キャスパーだ。キャスパーは黒い色をした泥棒猫で、森の中に住んでいる。たいした個性の持ち主だから、もっとよく知りたいと思っているんだけどね。三毛猫はぼくと一緒にギリシャからやって来た。バジリサっていうんだ。だけどまあ、ここにいる仲間たちは、クウィーニと呼ぶね」
 わたしたちの会話は、パカパカという馬の蹄の音と、車輪のガタガタという音に遮られた。商人の荷馬車がゲートの側で止まった。同時に、ほかのたくさんの猫たちが姿を現した。
 「ちょっとごめん」
 彼がゲートを開くと、荷馬車は中へと入った。荷馬車のテイル・ボードには、こう書かれていた。《クラスケ魚店》。荷馬車が進んで行くと、猫たちがその後にぞろぞろと続いた。
 若者とわたしは、家の裏手の庭へと向かう荷馬車についていった。
 「三ダースのホワイティング(訳注:ヨーロッパの海域に生息するタラ科の食用魚)ですよ、旦那。それと、五ポンドのセイス(訳注:北大西洋の重要な食用魚)と」
 ベトベトと濡れた新聞の包みを手にした若者がわたしに、中に入るようにと見ぶりで示した。わたしたちに纏わりつきながら、猫たちが一緒に中に入ってきた。
 そこは、波打ったレンガの床と背の高い食器棚がある、古風な広いキッチンだった。窓はnuttery(訳注:癲狂院?)に面していて、緑の太陽の光が部屋の中に満ちていた。コンロの上には魚釜があって、中の水は既に沸騰していた。そこに若者は、三ダースのホワイティングと五ポンドのセイスを全部放り込んだ。
 「中国がいいかな?それともインドにするかい?」釜をいっぱいにしながら、彼は言った。
 「中国にするわ――ええと、もしあなたがわたしをお茶に誘ってくれているなら」
 彼はお辞儀をして、それからトレイに磁器を置き始めた。
 「釜で煮ているあいだに、ミセス・オトゥワディが君に家族を見せるつもりみたいだよ」

いたばし花火大会

2012年08月06日 | 雑記


 土曜日には、いたばし花火大会に出かけた。
 対岸の戸田橋花火大会と同時開催で、合計11000発ということ。
 去年は花火大会が軒並み中止になったため、二年ぶりに見た花火大会だったが、やはり花火は綺麗。
 メインのひとつであるナイアガラは、遠かったので見えなかったけれど、堪能できた。
 帰りに通った浮間公園では、蝉の幼虫の脱皮ラッシュで、歩きながら、何匹ものまだ白い蝉が自分の殻に止まっている姿を目にした。
 子供たちが足をとめて、珍しそうにみていた。
 子供の頃は、たまに幼虫を捕まえて帰って、家のカーテンに止まらせて脱皮のさまを観察していたが、ぼくも考えてみれば久々に見た。
 通りすがりのカップルが、「予想外のギャラリーの多さに蝉が驚いてるんじゃない?」と呟いていた。




コクリコ坂から

2012年08月02日 | 映画
「コクリコ坂から」 宮崎吾朗監督

を観た。

 妻が原作本を映画化以前から持っていたので、原作をパラパラと読んだ後に観たのだが、ほとんど別物になっていた。
 何より、原作のキャラクターたちは、あんなに「いい子」たちではなかった。ジブリ路線からすれば、原作どおりのキャラクターにするわけにもゆかなかったのかもしれないけれども、そこを無難にいつもの感じにしてしまったところが、映画を「何とも言えない、薄っぺらくて漠然とした感じ」にしてしまった大きな原因なのかもしれないと思ったり。光と影のコントラストが弱いんだろうな、という気がする。
 ラストも、あまりに唐突にまとめてしまった感があるし、伏線っぽいところが、見事に回収されないままに放って置かれているように感じた。あれ、あれは伏線じゃなかったのか、というところがやたらと目についた。シナリオがどこかいきあたりばったりで、練りこまれていない気がする。絵にも、なんだか魅力がないし。
 同じようなジブリの「爽やかな青春映画」でも、「耳をすませば」とは随分と完成度に差があると思った。