つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

ふるまい

2014-06-22 | Weblog
企業経営というのは大変である。だから、
経営者というのは至極大変。
従業員とともに発展していくことを理念として
自分の始めた仕事を成功させていく。従業員と共に歩んでこその成功である。

今の世の中、ただ単に自分の欲望のみに気がそそられ、
従業員のことをあまり思わない。
一日働けば一日分の賃金が払われるが、休みともなれば働いていないのだから賃金が無い。
日雇い人夫である。道具としての都合で雇うのである。が、雇われる方はあまりに利が少ない。
盆暮れ、あるいは、何かに於いて休まなければいけないとなれば、どうだろう、
働いていないのだから賃金は無い。あたりまえであるが、何の保証もされていない身分に置かれて、生活もままならない。
経営するという者は、従業員を道具とみなし扱ってはならなず、生活の保障も考慮しての責が生じるのであるが、
経世済民という事を忘れて経営をする。
共に発展という思い遣りが無くして経営はは成り立っていかず、
その様な事を蔑ろにして、屁理屈ばかり述べていれば破たんしていくのである。

一ヶ月の括りとして、働いても休んでも、働いているとみなして経営、経済である。経営済民、経営者なのだ。
そうすれば、従業員とて安心であり精根込めて仕事にもあたっていけるものとなるのであるのだが、
ブラック企業たる言葉まで生まれるほど、情けない経営者が蔓延ったものだ。
そういう者は上に立つ者ではなく、餓鬼畜生に生きる者であり、じきそうなる運命でもある。

経済、経営というのは、国についても同じである。

裕福、貧乏にある立場は何を語るのか。何を語ってあるのか、いるのか、それを見れないものは、
各立場に於いて論い、また、不平不満にして侮り驕るのである。

力のあるものは、力の付けたものは、力の無いものを保護しなければならない。
それがなぜなのかを見れないものは、じき、底辺を知らされるのである。

そうやってある時を経験思い知らされて、優劣なものがある。
それでも尚、知らずして無謀に振る舞うものがいるのである。泡沫の世に何度生まれ変わっても。
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あやまつか・(禍・渦・過)果

2014-06-21 | Weblog
日常に同化して、善悪も正しい判断ができずに、
凶悪な犯罪、猟奇的犯罪にもこれと言って驚きもせず、
亦かといった感覚で報道を聞き流す。
暑い暑いと言いながら夏を過ごすも、子供の頃の暑い夏とは違い、
熱中症なる病に倒れたりするほど危険な状況になるも、
それも当たり前となって、特に恐れることもせず、対岸の火事としてやり過ごす。
四季折々が非常になれど、順応でもないのになれてきて、怖いと思えど留めることなくやり過ぎる。
過ぎていくとはどういうことか。この文字は、ある時ある場合「過つ」とも読まれる。

過ぎていく、過ぎる、ただ単に過ぎていく、過ぎるということはどういうことか。

日常の変に慣れて、過つことをこれと言って気にもせず、何かにつけ言い訳をする。
そんなとき、じわりじわりと迫りくる異変にも無頓着になって、
急変という弁明をする。予期せぬことと言い訳て。

禍という渦にのまれて過去となる果?。
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不自然

2014-06-20 | Weblog
よく自然を見て自然に合わせて暮らす。
自分を自然に合わせるのである。
自然を自分に合わせて暮らす不届きは畏れ多く、
またその節理は哀しいものである。

人以外の生物は、自然に合わせて暮らし進化しているために、
その場に順応し適応している。
人の身体は、最も進化の遅れている動物であり、そのために、自然の中では
生きていけなくなっている。

犬に服を着せて飼っている人がいる。
犬は服を着て暮らす動物ではなく、そのために、全身毛でおおわれている。
その命の自由を奪って、不自由を自由と隷属。
不自然。
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情けない者である

2014-06-19 | Weblog
人の一生、生きても100年。
ほとんどは7・80年の命。
正義に触れれば短くて、
無知にして長く、
何気に苦しいものである。
食にして気にし、美味い不味いにただ生きて、
好き嫌いに右往左往、躁鬱にして生きている。
ただそれだけで一括り、そんなもので明け暮れて
潰えていくものである。

悔いなき人生と思いて、
幾多苦しむものである。
無情にも自分という者である。
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無無・

2014-06-18 | Weblog
否定の肯定、
肯定の否定である。

否定の否定では肯定にならない。
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行い

2014-06-17 | Weblog
昨日も今日も同じだ。
そうして明日もまた同じだ。
ただただ同じを繰り返して過ぎていくだけ。
それだけである。
そうして、老いていくもので、一生が過ぎ去る。
そして幾多の人生を経験し、生命はその質、格付けられていく。
あの人生この人生と格付けられた性質が人格。
この生命、魂はその善し悪し宿命となり、その命、運命とする。
その運命如何なる性格となるや、何もかも業による。
何を思い何を為したか。
性質も性格も自由という何もかもに掛かる。

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献を思う

2014-06-16 | Weblog
真心を込めて物事に当たればよい。
それだけ出来ていれば、何ごとも案じるには及ばない。
大して難しいことではない。
難しいとするのは、損得を思うからだ。
「献」を思えばよい。
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学習

2014-06-15 | Weblog
刹の無いところには仏は現れることは無く、
啓示となることは無い。

祖の師というのは、
誰に師事することなく、して
指示されるものでなく、
自然にして
暗に受け取り知るものである。
智慧にして優れるものになり、駆使して力量余りあるものである。
そのもの、見て威となるも、気配を消し去り紛れる。
偉大にして平凡にし、
まさに路傍の石のように転がってあるのである。
価値あるものが原石にしてくすむも、やはり、他に一線を画し、
その波、揺らぎは優しく、何とも言えない癒しを与える。
光背が滲み出るのである。
それもこれも素にして自由、その是を知って然るのである。
然るに智慧をもって師となるのである。
それ故に、見つけられるのである。誰に教わるものではない。
だから、見られるのである。

もしも、日頃、刹にして精進努力にあれば、難無くして道は標されてくる。
自然というのはそういうものである。
だから、智恵をつけろ、自然を見て是に従え。
それだけで、答えは与えられている。
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安寧秩序

2014-06-14 | Weblog
物には魂が宿る。
それが有、無機質にかかわらずである。
精があるためで、精が目覚めるのも扱われ方による。
無造作に扱われると負のエネルギーとなって放出される。
丁寧に扱われると正のエネルギーとなって放出される。
正・負自体には良い悪いは無い。
扱われ方による良し悪しとなってしまう。
その果は知らず知らずに各物事に報いる。
世話になった物の役目が終えた時、丁寧に捨て去るのであれば
今後も何かにつけて物事は無事を得ていく。
無造作となれば何かと障りになる。

一つ、食器はまた使うために洗うのではなく、
世話になったための感謝でもって洗うのであり、して、
それがまた世話を為してくれるのである。
使う使わないに限らず、世話になったものに感謝の行いは大事。
丁寧にして安寧である。
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一念通常に非ず

2014-06-14 | Weblog
こうも年寄りが多くなってくると
情報も何かと死んでいく様の事柄が目につく。
50.60.70ともなってくるとあの世の事が気にかかる。
どう死んでいくのだろうと思うも、50はじめではまだ気にかかることも少ないが、
さすが60,70ともなれば死に逝く様が気にかかるものだ。
寿命として、早ければ50からぼちぼちにしてこの世とおさらば、70ともなれば
ほとんど半分がハイさいならと旅立つ、80でピンピンころりは幸せ者の寿ぐ命。
あそこ痛いここ痛いと生きているのも辛くして、天涯孤独も淋しくして因果なものでも、
家族に介護の迷惑を掛けながら生きているのも辛いもの。長生きもほどほどが現代版姥捨て山社会。

この世の未練とて、執着こそ苦しみである。生き辛い世の中に何の未練がありましょう。
とっとと逝けるものなら逝きたいと思うも、何一つ自由とならない宿命運命、それを寿命とはつまらない慰め。
閑して持て余すのも無知なる生き様の業、えさの無い沼地にぽつねんと佇む鷺のように、おいぼれである。
それでも、病んで死ぬ人がいれば、鬱ともならずに死に憂いて生きて、寿ぐ命という者である。
いまひとつ、仏の一字に目をやり耳を聴きたてて、それさへ出来ていれば老い惚れて、黄昏染まる人生も満更ではないのである。
老い耄れではない、老いに惚れてこそあの世が希望となっているのである。
さて、闇に吸い込まれ包まれていく想いのブラックホールと思いきや、
光放たれていく世界に身を泳がせられるのである。
宙(そら)を見よ、漆黒の闇に包まれているではないか。まさにここはブラックホールの中にあり、
引き寄せられる運命の力に吸い込まれて、ホワイトホール、希望の光に満たされた世界に放たれるのである。
それが寿いだ命の世界。極楽浄土にして、業によって見え隠れする天空の地である。
今私がいるここより西の方十万億土の彼方に霧が漂い見え隠れする様である。
心の霧もその霧も同じ様。払っていつも見える国土である。

心の目で薄れゆく人生を見ませう。
無駄にしてあるはずも無い人生である。
それは日常とかけ離れてある思いにこそある。
平凡にして生きても平凡として思い起こしてはならない。
心には時間なんてない。一瞬にして間に合うものである。
だから、希望となるのである。
心をみがけ、平凡にしてはならない。
一念岩をも通すと
架空ごとで語られているのではないものである。
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