もし、あなたが救われたいと思うなら、たった一つ方法がある。
仏の説いた般若心経を身に付けることである。
それは、仏の説くように
文字に惑わされさまたげられないように、正しく理解することである。
正しく理解されれば、誰に教わることも無く自然と行為となっていく。
その行為は紛れもなくあなた自身の盾となり、また、矛ともなり、
道を切り開いていくだろう。
道なき道を切り開くのは、誰が教えてくれるものでもない。
自然が指し示すものであり、その道理に従うだけである。
その道理を知るには知恵である。
智慧は、自然から学ぶ己の感覚、独特のものであり、自分以外に知り得ることはできない。
それぞれ個の独特の感覚である。それ故、他に訓えても訓えられるものでなく、気づく以外に術は無い。
受ける者の感受性である。それは個々違うものであるが、道理にして同じものである為に、
何一つ違いとなることなく、阿吽の呼吸となり、寸分違わず同じを得る。
仏の説くもの、あなたの得るもの、同一となるのである。
仏はこの世の人ではない。以前この世の人であったもので、あの世のものである。
あの世は法の絶対世界、生命の真実の世界である。
その真実の世界から語られているのが般若心経である。
それ故、この世の人の一切手が加えられることなく、真実が語られている。
その真実はこの世の経験とはならないために、理解しがたいものである。
だから、語られる文字に礙げられることのないように、また、心は自由であるために、
智慧をもって都合をつけていくことであると伝えられている。
さて、如何なものか、あなたの感受性は。送信するものがあっても受信するものがなければ、
それは見ていても見えないものである。
ただ漫然に日々が流れているようなものである。
キラキラと星がまたたいていても、ただそれだけである。
もし、感受することができれば、見えないでいるものが見られてくる。
仏の説いた般若心経を身に付けることである。
それは、仏の説くように
文字に惑わされさまたげられないように、正しく理解することである。
正しく理解されれば、誰に教わることも無く自然と行為となっていく。
その行為は紛れもなくあなた自身の盾となり、また、矛ともなり、
道を切り開いていくだろう。
道なき道を切り開くのは、誰が教えてくれるものでもない。
自然が指し示すものであり、その道理に従うだけである。
その道理を知るには知恵である。
智慧は、自然から学ぶ己の感覚、独特のものであり、自分以外に知り得ることはできない。
それぞれ個の独特の感覚である。それ故、他に訓えても訓えられるものでなく、気づく以外に術は無い。
受ける者の感受性である。それは個々違うものであるが、道理にして同じものである為に、
何一つ違いとなることなく、阿吽の呼吸となり、寸分違わず同じを得る。
仏の説くもの、あなたの得るもの、同一となるのである。
仏はこの世の人ではない。以前この世の人であったもので、あの世のものである。
あの世は法の絶対世界、生命の真実の世界である。
その真実の世界から語られているのが般若心経である。
それ故、この世の人の一切手が加えられることなく、真実が語られている。
その真実はこの世の経験とはならないために、理解しがたいものである。
だから、語られる文字に礙げられることのないように、また、心は自由であるために、
智慧をもって都合をつけていくことであると伝えられている。
さて、如何なものか、あなたの感受性は。送信するものがあっても受信するものがなければ、
それは見ていても見えないものである。
ただ漫然に日々が流れているようなものである。
キラキラと星がまたたいていても、ただそれだけである。
もし、感受することができれば、見えないでいるものが見られてくる。