つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

是非曲直迫りくる

2014-06-07 | Weblog
一月分ほどの雨の量が一日で降ったとニュースで見た。
本当に近年は世界中で天候異常が多くなった。
こんな風景があるのだろうかという怖くなるような天空の模様が有り、
海の様相も想像しがたい高さの量に膨れ上がる。
そんな先行き不吉な予兆を受けて、謙虚たる思いに馳せればまだ救われもあるのだろうが、
ただ気をもむばかりに気づかずにいて、
その有り様を受けて、地ははなはだ荒んでしまう。荒涼たる世界がただ広がるばかりである。

蟻の巣が無邪気?な子供のいたずらにかき回されて翻弄される有り様に、
何の因果が有るのだろうかと思いながら、小さくして生きているものへの侮りなのだろうかと、
返す返すも、その子供の無知の様の愚かさを思うものである。

私という者は、目が私であり、しかし、目が私?というのでもない。
手がわたしであり、しかし、手が私というのでもない・等等々、私というのは、
一つ一つの部分部分が寄り集まって、私という個になって表されるが、どれ一つとっても、
これが私という断定が無い。

部分部分、小さな小さな個別が集まって大きな一つの私という者になっている。
どれ一つ私というのでもなく、私ではないというのでもない。
その様にして寄り集まってできた形は大きなもので、遙か彼方からも見渡せるようになる。
その有り様は、それがすべてであるように物語り、様々に影響を及ぼし、偏に強靭強大である。

強靭強大なもの?としての振る舞いは、時として驕りに与り咎めが来る。そして、
ことごとくに打ちのめされて終てしまう。

この地球を宇宙(そら)から眺めれば、その宇宙(そら)の下、水満々湛えられていて、
小さく突き出てへばりつくように見える大地?に、
あたかもすぐさま覆い被さる様である。

遠いある過ぎ去りし時の中、四十日四十夜降り続いた雨が満たされて、
山よりも高く、全てを覆い尽くしたように、
無邪気を過ぎた子供達に襲い掛かる。
それは、法が繰り返しであるように、
邪悪に満ちたものへの浄化に過ぎない。

「歴史は繰り返す」そのように言われ、人は微塵にもその環状を知るも、
どうしてよいかうるたえるだけである。それは、驕りにも似て、‘自分だけは・・’という
生命の感情から来るもので、生命そのものを理解しない限り仕方のないことである。
法にただ無知なるが故にであるが、いたしかたない。

子供のように無邪気にしても、破壊行為はしてはならない。
すべてのものが、善きにつけ悪しきにつけ共で成っているのだから。
己が心にて主観であり客観になれず、客体になることはできず、
だから、すべてのものを殺してはならない、殺させてもならない。
裁けるのは自然だけである。理非曲直。是の為すことである。
コメント
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