つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

終わりなき世のめでたさに・・

2012-12-15 | Weblog
年末になればなにやら慌ただしくて、ざわついている。
いつもと同じく日は過ぎているだけであるのに、人の心が創る時の捉え方。
猫に犬に鳥に・・・と記念日と言うものは無い。人の思いにだけある煩わしい気持ち。
時はただ過ぎ去るのみで、何のこだわりも無い。何のこだわりも無いのだから、
こだわらないで生きるところに堪忍とし、無事長久となるを思うも、
堪忍袋の緒が弱く、切れて厭きれて生きてしまう。えてして多勢地獄を彷徨う。
何度も何度も、あの人生この人生と戒められる。
戒められて、はて気が付いて省みる心が起これば、いつかの人生、人の世に於いて坊主の道を歩む。
ただその坊主、道端のYの路に立つ地蔵の如き、示唆して粗末で勘弁で生きる。
人の世の偽善に満ちた中に揉まれて、ぼろぼろとなった衣に包まれた体は、若々しくはじきれんばかりエネルギッシュである。
次の世の生まれることの無い快楽の扉の前に立つこととなり、とてつもなく重厚で威厳の色で閉じられている。その
閻魔の扉は開かれて、光明が身を包み見えなくなった。

気ぜわしさに関係なく、ひっそりと人の命は閉じられていく。
いつかは気ぜわしさの中にいたものも、路地裏の静かさの中を歩む。
一人また一人とこの世から消えていくものを、誰も気に留めることも無く
目先の騒がしさを好む。まるで、順番が来るのを怖がるかのように見えてただ騒ぐ。
閻魔の扉が、暗がりにしか見えないために。
間違えて生きていないか?
あの世というのは空白な時間である。時間ゼロの世界である。
地獄となれば、それが正しい世界となって、苦しむことが正しいとして生きる世界である。
接点ゼロであるため百万年も一年も差はない。縁あって輪廻して、未来世に現れたとき判断できる機会を持つ。
Y路地に立つ。
間違えて生きるな。
輪廻はただ苦しみだけであると仏は言われる。
来世もまた会おうとするのは間違いである。あの世の、それも天国の、それも輪廻の無い世界こそ生命の目的である。
涅槃寂静こそ生命の世界である。絶対快楽の世界である。心の思うがままの世界である。
会いたい人がいて、清浄の人を侍らしている世界である。
人の世の快楽など微塵も及ばない世界であると仏は説く。
区切りが無く平らで煌びやかで退屈も無い。

苦しみのこの人生を終えるとき、あの世を希望のある世界とすることである。
誤って生きてきて、希望を持てないのであれば、「遠離一切顛倒無想」とすることである。
業の報いは必然である。本人がいてもいなくても、根本の生命に報うものである。そのために、
清浄として生き報いを消し去っていくことである。誤った生き方の人は、また生まれ変わってくるもであるから。
それはただ苦しいものである。堪忍、堪忍ただ堪忍。
だから、この世は苦しい。でも、無事長久の基である。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ふいに | トップ | 哀しい生き物 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事