つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

虚誕の世界に生きている

2024-09-11 | Weblog
前世で善い事をしていたから今生は良いところに生まれている、とするのは間違いである。善いも悪いもないのがエネルギーの法則である。この世に誕生してからの業(行い)、行為によっての立場となる。が、努力は苦しみである。苦しみより喜びが生まれるとした世界観であるために、嫌な事をした報いが今を表している。それは、正しいことではないのだが、正義となっている現実であるのは、この世は、「でたらめ」な世であるためである。そのために、「誕生」の「誕」の文字の意味は「でたらめ」という意味を持つ。現在の辞書にもそう記されてはいる。「いつわること」「うそ」「うむこと」とある。だから、競い争うことで一番になっても、その裏には悲しみがある。他人の悲しみの上に、貴方自身が成り立っているのは、いいのか悪いのかとする思いの矛盾にある。盾と矛のそれぞれの立場が正義とするために、解決されることはない。偏に「でたらめ」な世界であるためである。貴方は、この世界にいることの意味を明らかにしなくてはならないために、ここにいるのである。あきらめてはいけないとしての嘘をつかれて。
エネルギーの法則は円運動の自由である。これが存在となっている。この存在の自由は、縁の自由でもあるために、喜びは喜びにつながり、悲しみは悲しみにつながっている。これが法則(道理)であるために絶対となっている。
なのに、苦しみの後には喜びが来るとした現実が証明となっているために、
疑いもなく信じてしまう。信じることによって現象となり振り回されるために、一心に仏に祈れば、仏が現れたとする幻像となり、それに振り回されてしまうのである。意識が地獄の世界となっているためである。それに気づくことがないのは、この世に同化しているためである。同化してしまえば、何もかもわからなくなっていく。
祈る行為は、立ち止まり動きは伴わない。静止状態である。動きのないところには変化が生まれない。変化がないというのは変わらないということである。そのため、どんなに願い祈ったところで事態は変わらない。願い事に向かって動くことで希望は見えてくるのである。だから祈って願いが叶うなら、苦労などいらないことになる。そんな道理はこの世にはない。この世はでたらめな世なのであるから、苦しみから喜びが生まれるとして、現実となっている。だから、動いてこそ事は進んでいく。だからと言って、努力しても願いは叶うとは限らない。嘘にまみれている世の中に、誕生しているためである。
精神的に生きなさい。ヒントは「愛」である。これが理解できれば、
この世に誕生することがなくなる。

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虚(嘘の世界=でたらめな世界)=負(負う)世界=今の世

2024-09-11 | Weblog
栄枯盛衰の道理は健全である。「花の命は短くて…」とうたわれて、人間の一生、まことに花に見られる様である。どんなに艶やかにあっても、堅固にあっても、刹那に朽ちる。まさに夢のように儚いものである。
物理にあるものとして死しても、根本は魂、精神生命である。
だから、肉体は儚いとしても、「墓無い」(墓いらない)として、「千の風」の歌にあるように、そこに眠っているわけではないと覚ることである。魂は永遠である、死などない。これが真実である。この真実を明らかにみることである。そのために、明らめないと暗示をかけてはならない。あきらめてこそ真実を知ることができるのである。「あきらめない」と言わず「投げ出さない」と言う言い方に変えないと、いつまで経ってもあなた達は、嘘の世界で生きることになる。
宇宙からのテレパシー、以心伝心である。

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国破れて山河在り

2024-09-11 | Weblog
大衆迎合意識、この意識次第で社会は変わっていくが、日本国は、戦後の洗脳教育が行き届いているために、なかなか変われないでいると思われる。変わりたいとする思いはあれども、今までの慣習のもと、常識となって覆すことができていない。保守的と革新的・進歩的は今拮抗にあり、特に政治改革は最も必要とされる時である。今までの「ありのままで」いなさいとする風潮こそ改めなければならない。今この時代は、過剰な規制は規則無視の風潮となっているために、上にある者たちの悪態ぶりが、どこもかしこも目に余る状態となっている。そのために、法治国家にして、不正不正不正と連日報道される事態、明らかに「本当は」とすることが、露呈している。何を信じていいのやら、どこに信頼があるのやら、という、生真面目な性格にある日本人が、疑いの目をもって見られるようになっている。信用信頼の失墜ともいうべきゆゆしき事態にある。
日本人、昔より浦島太郎・金太郎・桃太郎と太郎と名ずく人の多い国、似非太郎もいるが、本物の太郎もいる。いまだ小さくあるも本物は芽が出てくるものである。鬼は成敗されていく、昔話は本当のことでもある。
さて、手に持った玉手箱を開けたとき、Yの字の道が現れた。一方の道は新しい黎明の道として輝いて見えた。もう一方の道は行き慣れた道のように見えたが、両方の道の行き先は交わって一本の道になっていた。その交わりの処に、
標(しるべ)が立てられていて、こう書かれていた、「かつての道」と。

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