唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 散乱(2)補足と護法の正義(しょうぎ)

2015-12-15 20:50:21 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 第二師が、散乱は貪・瞋・癡の一分であるという理論的根拠を説明します。
 「謂く、貪・瞋・癡いい心を流蕩(るとう)なら令むること余の法に勝れたるが故に、説いて散乱を為すという。」(『論』第六・三十一右) (つまり、貪・瞋・癡は心・心所を流蕩ならしめることが他の心所より勝れていることから、説いて(心・心所を流蕩ならしめる働きを以て)散乱の心所として立てるのであると、第二師は主張する。)
 「述して曰く、此の三の法(貪・瞋・癡)は心をして流蕩なら令むること、慢等の法に勝れたるが故に。是れ不善根が故に、行相數々(ぎょうそうさくさく)猛(みょう)なるが故に。」(『述記』第六末・八十六右)
 數々 ― とだえることなく。
 猛 ― はげしいこと。猛焔(みょうん)・猛火(みょうか)・猛香(みょうこう)・猛盛(みょうじょう)・猛利(みょうり)等の熟語があります。
 貪・瞋・癡の働きは三不善根でありますから、その働きはとだえることなく猛々しく、心をして流蕩なら令むること他の心所(慢等に)に比べると強力であることから、散乱は貪・瞋・癡の一分であると云うのですね。

 護法の正義を述べる。
 「有義は、散乱は別に自相有り、三の分と説けることは、是れ(散乱)彼(貪・瞋・癡)が等流(とうる)なるをもってあり、無慚(むざん)等のごとし、即ち彼(貪・瞋・癡)に摂するものには非ず、他の相に随えて説いて世俗有(せぞくう)と名けたり。」(『論』第六・三十一右)
 第三師(護法)の説は、四つに分けられて説明されます。
  初に、標挙して文を会す。(護法の正義を挙げ、護法の正義と他の文献が相違していることを会通します。)
  二に、正を申す。(護法正義を述べる)
  三に、前を破す。(第二師の説を論破する。)
  四に、別を顕す。(掉挙(じょうこ)と散乱の相違を説く。)
 上記の文は初になります。
 護法は主張する。散乱には別個の自相がある、と。散乱が三つ(貪・瞋・癡)の一分と説かれているのは、散乱が貪・瞋・癡の等流であるからである。それは無慚等のようなものである。無慚等が実際には固有の自体を持つ心所であるが、『対法論(雑集論)』等には「三(貪・瞋・癡)の一分である」と説かれているのと同じ論法であり、即ち散乱は貪・瞋・癡の一分ではなく、実法であって、何らかの心所の一分であるという仮法ではない。
 散乱を仮法(世俗有)であると説いている文献(『瑜伽論』巻第五十五)があるのは、他(癡)の相に随えて仮法であると説いているだけである。
 護法は言う。散乱の心所は、仮法ではなく、散乱固有の自相を持つ実法である、と。
 護法正義の内容につきましては、明日にします。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 散乱(2)異説

2015-12-14 23:39:58 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 三師の異説が述べられます。第三師の説が護法の正義になります。
 第一師の説、
 「有義は、散乱は癡の一分に摂めらる、瑜伽に此は是れ癡が分と説けるが故にと云う。」(『論』第六・三十左)
 (第一師は主張する、散乱は癡の一分である、と。その理由は癡の一分からである。)
 『瑜伽論』巻第五十五の所論を挙げ、そこには「妄念と散乱と悪慧は癡の一分なり。」と説かれていることを以て教証とし、自説の正当性を主張しているわけです。

 第二師の説は、第一師の説を否定しつつ、自説の正当性を説いていきます。
 「有義は、散乱は貪・瞋・癡に摂めらる、集論(じゅうろん)等に是れ三が分と説けるが故に、癡が分のみと説けることは、染心に遍せるが故に。」(『論』第六・三十左)
 (第二師は主張する、、散乱は貪・瞋・癡の一分である、と。何故ならば、『集論』及び『五蘊論』に「(散乱は)貪・瞋・癡の一分である」と説かれているからである。散乱が癡の一分であるとのみとかえているのは、癡が染心に遍く存在していることから説かれているからである。)
 第二師は、第一師の説を会通しているわけです。第一師が自説の正当性を述べるために採用した『瑜伽論』巻第五十五の所論の、「癡のみが染心に遍く存在している」と云うのは、染心に遍く存在する視点から『瑜伽論』では散乱は癡の一分である説いているのである、と会通しているのですね。つまり、貪・瞋は染心には遍く存在せず、癡のみが染心に遍く存在することから、散乱は癡の一分であると説かれ、貪と瞋が散乱の一分ではないと説かれているのではないと主張しているのです。
 第三師の護法の正義は明日考えたいと思います。 おやすみなさい。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 散乱(2)性と業について

2015-12-13 23:26:15 | 第三能変 随煩悩の心所


「云何なるか散乱。諸の所縁に於いて心をして流蕩(るとうーほったらかしにすること)ならしむるを以って性と為し、能く正定を障えて悪慧の所依たるを以って業と為す。謂く、散乱の者は悪慧を発するが故に。」(『論』第六・三十左)
 (どのようなものが散乱の心所なのであろうか。散乱とは、もろもろの認識対象に於いて、心心所を乱れ動かすことを以て本質とし、よく正定を妨害して、悪慧の所依となることを以て具体的な働きとする心所である。つまり、散乱の者は悪慧を発するからである。)
 落ち着きのない心を散乱と表現しているように思います。散乱は後に「倶生の法」であると云われますが、散乱と倶に生起した心・心所のことで、散乱とともに働く心・心所ですね。
 流蕩につきましては、昨日概略で述べましたが、「流蕩とは「流」は馳流(ちる)なり。即ち是れ散の功能の義なり。「蕩」とは蕩逸(とういつ)。即ち是れ乱の功能の義なり。」と云われています。「流」で散乱の散の働きを示し、「蕩」散乱の乱の働きを示しているのです。馳流(ちる)は馳せ流れること、蕩逸(とういつ)しまりがなく、きままなことという意味になります。自分の思いにながされて、他を気遣うこともなく、我儘でしまりのない生活者ということになりましょうか。僕のことを言い当てている、という感じですね。
 流れるということは、自分の思いで決めつけてしまうことだと思うんですね。自分の思いのままに変えてしまうことを「諸の所縁に於いて心をして流蕩(るとうーほったらかしにすること)ならしむるを以って性と為し」と、定義づけているように思います。心の私有化の問題ですね。すべては自分の作り出した虚像である、と。散乱の本質は、自分が自分の心に翻弄されているということなのでしょうが、それが解らないから、散乱の因を外に求めて自己を正当化していくのでしょう。教えられます。
 
 散乱もまた仮立されたものなのですが、何の上に仮立されたのかについて、三師の異説が述べられます。第三師の護法の説が正義とされます。異説については後日にします。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 散乱(さんらん) (1) 概略

2015-12-12 20:08:08 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 散乱の心所にはいりますが、散乱は、言葉の通り、心が散る、乱れるということですね。乱れることは定を妨害するということでいいのですが、悪慧の依り所となるということが問題ですね。顚倒しています。『浄土論註』に「顚倒の善果、よく梵行を壊す」と述べられていますように、私たちが「よかれ」と思っていることが、実は悪慧の依り所となっていることに気づいていかねばなりませんね。
 「云何なるか散乱。諸の所縁に於いて心をして流蕩(るとうーほったらかしにすること)ならしむるを以って性と為し、能く正定を障えて悪慧の所依たるを以って業と為す」(『論』第六・三十左) 
 といわれます。失念は意識の対象に於いて不能明記であると、記憶できずに正念を障えてしまうと言われていましたが、散乱は正念をもてないことから意識の対象に於いて心が散乱するのです。散乱した心をほったらかしにして正定を障えるのです。正定を障えることに於いて悪の知恵の依処となるのですね。仏陀の最後の説法は「自を灯とし、他を灯とすることなかれ。法を灯とし、他を灯とすることなかれ。」自灯明・法灯明と遺言されました。法に由って明らかにされた自己を灯として人生に立ち向かうのが善の方向だと思います。それに反し自我中心に人生を考えるあり方が悪の方向になるのではないでしょうか。正念を障えて失念し、失念することに於いて散乱を招き正定を障えるのですが、そのことにより悪の知恵の依り処となるといわれるのです。

 流蕩とは「流は馳流(ちる)なり。即ち是れ散の功能の義なり。蕩とは蕩逸(とういつ)。即ち是れ乱の功能の義なり。」

 といわれます。心が川の流れのように、流れる様子を散といい、蕩はとろける・とろかすという意味があります。水がゆらゆら揺れ動く様子を言い、心がだらしなく、しまりがない状態を乱というのです。「散乱は、あまたの事に心の兎角(とかく)うつりてみだれたるなり」(『ニ巻抄』)と。

 「散乱は別に自体有り。三の分と説けるは。是れ彼の等流なればなり。無慚等の如し。即ち彼に摂むるに非ず。他の相に随って説いて世俗有と名づけたり。」と、散乱と云う煩悩は独立して有ると言われます。三の分とは貪・瞋・癡の事ですが、この中に「散乱は有る」という説を退けるのです。「別に自体有り」と。

 散乱の別相について「散乱の別相とは。謂く躁擾(そうにょうー心が落ち着かない、心を落ち着かせない事)なり。」(「躁とは散を謂う。擾とは乱を謂う。倶生の法をして流蕩ならしむ」)軽躁という言葉がありますね。こころが落ち着かずそわそわしているのです。あるいは軽佻浮薄(けいちょうふはくー心がうわついて軽薄であるという意ー軽佻の佻は跳ね上がりで落ち着かない意)ともいわれます。散乱と云う心は独立して働いていると言われているのです。
正念を障え、正定を障えることが失念や散乱をもたらすと言われていることを述べました。ここで親鸞聖人は正念・正定をどのように捉えられているのでしょうか。『教行信証』行巻には

 「いま弥勒付嘱の一念はすなわちこれ一声なり、一声すなわちこれ一念なり、一念すなわちこれ一行なり、一行すなわちこれ正行なり、正行すなわちこれ正業なり、正業すなわちこれ正念なり、正念すなわちこれ念仏なり、すなわちこれ南無阿弥陀仏なり。
 しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず。すなわち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵うなり。知るべし、と。」

 『選択本願念仏集』源空集に云わく、南無阿弥陀仏往生の業は念仏を本とす、と。
 また云わく、それ速やかに生死を離れんと欲わば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣きて、選びて浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲わば、正雑二行の中に、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲わば、正助二業の中に、なお助業を傍にして、選びて正定を専らすべし。正定の業とは、すなわちこれ仏の名を称するなり。称名は必ず生まるることを得、仏の本願に依るがゆえに、と。已上」(真聖P189・192)

 正念・正定を仏の本願の内容とされています。「凡・聖自力の行にあらず。かるがゆえに不回向の行と名づくるなり。」と、 行の仏教から信の仏教へ質の転換をはかられました。この質の転換は「普く諸の衆生と共に」という万人に開かれた仏教への選びでもあったのです。このことを念頭に於いて今少し散乱と云う煩悩を考えていきます。

 「掉挙と散乱とのニの用何ぞ別なる」とひとつの問いをだされます。掉挙と散乱どう違うのかということです。答えは「彼は(掉挙)は解を易(か)えしめ。此れは(散乱)縁のみを易えしむ。解は理解する、考えるということですね。心がふらついて、理解したり、考えたりができない状態を掉挙というのですが、散乱は縁が変わる、心の捉える対象が一定しなく次から次へ変わって落ち着かないのです。次に「う~ん」という説明がでています。瞬間だけをみると変わらないが、一定の時間の中でみると落ち着きがないというのです。「一刹那には解と縁と易わること無しと雖も、而も相続するに於いて易わる義有るが故に」と。そうですね。この瞬間では変わることは無いですね。それが連続しないですよ。瞬時瞬時に心は変異していますからね。掉挙と散乱は私の本質・本性だと教えられます。
 散乱とは、その性は心が散漫にして、きちんとしていないということであるといわれていました。正定を障へて不正見を起こすのです。掉挙(じょうこ)と散乱との用の違いは「掉挙(じょうこ)は心を挙す境はこれ一なりと雖も、倶生の心・心所の解をして縷縷転易せしむ。即ち一境に多解するなり。散乱の功は心をして別の境を縁ずることを易へしむ。即ち一心を多境に易へしむるなり。」(『述記』)といわれています。私は「今」を考える上で大切な指摘をいただいていると思うのです。ただ単に「今」は不連続のとぎれた「今」になりますでしょう。今を大切にと云った時、瞬時を大切にすることが、つながりを大切にしているのかという問題が残ります。ですから今は「永遠の今」でなければなりません。今だけという今は縁に由って対象が変わりますから落ちつきがありません。間断しています。本当に「今」といういことは「無間断」でしょうね。散乱は「相続するに於いて易わる義有るが故に」といわれることには故あるかな、ということです。

「染汚心の時には掉と乱との力に由って、常に念念に解を易え縁を易えしむべし。或いは念等の力に由って制伏(せいぶく)せらるること飽猴(えんこう)を繋ぐが如く暫時住せること有るが故に掉と乱とは倶に染心に遍ず。」

 染汚心は末那識ですね。不善と有覆無記です。この心には掉挙と散乱との両方の力に由り、瞬時瞬時に解を変易し、縁を変易するのです。心が寂静でない状態では静かにものを考えるということはできないですね。また心が写り変わりますと落ち着かないでしょう。飽猴(えんこう)は猿です。大きな猿と、手長猿ですね。何を言っているのかといいますと、人の心は猿のようで、そわそわして落ち着きがないと。「繋ぐが如く」正念・正定・正見等の力に由って制するのですが、その間、暫らくは掉挙と散乱の状態が続くのであって、それは染心であり、煩悩だと云っているのです。掉挙は定心という禅定において心が落ち着かないという状態ですが、散乱は日常的に起こる何事にも集中できない状態をいうのでしょうか。僕は家に居てですね。何かに集中しようとすると、これがですね、今まで何も思っていないことが次から次へと思いだして落ち着かないのです。右往左往しています。『ニ巻抄』は

 「染汚と云うは、不善と有覆となり。不善と云うは悪なり。有覆と云うは、悪までは無けれ共、濁れる心なり。此のニの性は皆な穢らわしき心あるが故に染汚性の法となづく。」
 と述べています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 失念 (3) 護法の正義

2015-12-11 22:48:12 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 護法の正義を述べる。
 「有義は、失念は倶(く)の一分(いちぶん)に摂めらる、前(さき)の二の文に影略(ようりゃく)して説けるに由るが故に、論に復此は染心(ぜんしん)に遍すと説けるが故に。」(『論』第六・三十左)
 (護法の正義は、失念は念と癡の倶の一分であると云う。何故ならば、前掲の『雑集論』と『瑜伽論』の二の文に影略して説かれているからである。また『瑜伽論』(巻第五十五及び第五十八)には「失念は染心に遍く存在する」と説かれているからである。)
 護法論師は、第一師と第二師の説が、各論の教証が相違することを影略をもって会通(えつう)しています。会通とは、経典間で相違する教えがあるとき、それらを比較して矛盾がないように解釈することですが、第一師は『雑集論』巻第一「失念は煩悩と相応する念である」と説かれていることを教証として、念の一分であると主張していますが、第二師は『瑜伽論』巻第五十五「失念は癡の一分である」と説かれていることを教証として失念は癡の一分であると主張していました。両者の矛盾を会通して、失念は念と癡の倶の一分であると説いているのです。
 『雑集論』は念をもって癡を略し、『瑜伽論』は癡をもって念を略して説いているのであると会通しています。このような説き方を影略互顕(ようりゃくごけん)といいます。辞書を紐解きますと「ある語句がその表現しようとする意味の一部を省略し、しかもその影においてその意味を顕すように造られている語句構成の一つの形式」であると述べています。
 もう一つの証明は「論に復此は染心(ぜんしん)に遍すと説けるが故に。」ということです。『論』は『瑜伽論』(巻第五十五及び第五十八)を指しますが、巻第五十五には「不信と懈怠と放逸と妄念と散乱と悪慧は一切の染汚心と相応する」(大正30・604a)と説かれています。妄念は失念のことです。また巻第五十八には「随煩悩の放逸と掉挙と惛沈と不信と懈怠と邪欲と邪勝解と邪念(失念)と散乱と不正知のこの十の随煩悩は一切の染汚心に通じて起こる」と説かれていることを挙げて、失念もすべての染汚心に遍く存在するものであり、念の一部であるとか、癡の一部であるということではなく、念と癡の倶の一部の心所であると主張してきます。
 第二能変・心所相応門において、護法論師は、
 「忘念と不正知とは、念と慧とを以て性と為るならば、染心に遍せず。諸の染心に皆曾受を縁じ簡択有るにしも非ざるが故に。若し無明を以て自性と為るならば、染心に遍して起こる、前に説きつるに由るが故に。」(『論』第四・三十五左)
 (忘念と不正知は念と慧を性とするならば染心に遍在しない。何故なら諸々の染心にすべて曾受の境を縁じる働きや、簡択する働きが必ずしも存在するとは限らないからである。若し無明を以て自性とするならば染心に遍在して起こるのである。それは前に説いた理由による。)
 「忘念と不正知は念と慧を性とするならば染心に遍在しない」と護法は述べます。曾受の境とは念の認識対象のことで、六遍染師は忘念は別境の念の一分の染のものであると考えます。そして不正知は別境の慧を体とした染のものとします。この六遍染師の忘念と不正知の存在論に問題があると提起します。問題は忘念を念の一部とし不正知を慧の一部とする存在論であるならば遍染の随煩悩とはいえないということです。その理由が「諸々の染心にすべて曾受の境を縁じる働きや、簡択する働きが必ずしも存在するとは限らないからである」と述べます。
 「述して曰く、別境は亦是れ染にも遍すということを簡ばんが為の故に忘念等という。忘念と不正知とは、若し即ち別境の念と慧を以て性と為るならば染心に遍ぜざるなり。論(『瑜伽論』巻第五十五)に遍というは、無明の分に依って説くと言へり。所以は何となれば、第二師を破す。彼れは唯是れ彼(念・慧)の数と執するを以ての故に諸の染心に皆曾受を縁ずるに非ず。彼が念の数を破す。且く邪見、滅諦を撥無するが如し。此れ豈に曾受ならんか。彼若し是れ先に名を聞くが故に方に無を撥すとは、豈に名を撥せん耶。今、邪見は体を撥す。体は未だ曾より受けざるが故に。諸の染心に皆な簡択有るに非ずとは、前師の不正知有り、是れ慧の分なりと説くを簡ぶ。此の二(忘念と不正知)は若し無明を以て体と為すならば染心に遍ずべし。」(『述記』第五本・六十六右)と。
 詳細につきましては、2011年11月から12月のブログを参考にしてください。遍染の問題を解説しています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 失念 (2) 異説

2015-12-10 22:34:28 | 第三能変 随煩悩の心所
  
 
 失念も仮立されたものなのですが、何の上に仮立されたものかについて異論と正義が説かれてきます。三師の説が挙げられていますが、第三師の説が、護法の正義になります。
 初師の説。
 「有義は、失念は念の一分に摂めらる。是の煩悩と相応する念と説けるが故に。」(『論』第六・三十右)
 第一師の主張は、失念は念の一分であるという。何故なら、『大乗阿毘達磨雑集論』巻第一(大正・3・699b09)に「忘念者。煩惱相應念爲體。」(忘念とは、煩悩と相応する念を体とす)と説かれているからである。
 念は明記不忘(みょうきふもう)忘れないということ。第一師は、失念も忘れないという念の一部だと。忘れないということなんだが、だんだんと忘れないという気持ちが薄らいでいくんだと主張します。
 「此れは是れ念の一分なり。『対法』(大乗阿毘達磨雑集論)に「是れ煩悩と相応する念と説く」が故に。『瑜伽論』(巻第五十五)に「是れ癡の分と」説くは、是れ等流なるが故に」(『述記』第六末・八十五右)
 (第一師は自説の正当性を証する為に『対法論』を教証として挙げましたが、『瑜伽論』に「失念は癡の分である」と説かれているのは、失念が癡の等流であることを「癡の分」と説いているに過ぎないといいます。)
 少し返りまして、随煩悩の項を思い出してください。随煩悩とは、
「論に曰く、唯だ是は煩悩の分位差別(ふんいしゃべつ)なり。等流性なるが故に随煩悩と名づく。」(『論』第六・二十三右) 
 論に説かれている随煩悩は、煩悩の分位の差別であり、また煩悩の等流である。
 煩悩の分位の差別を明らかにしてしてきます所に、色々な形を持って現れてくる、根本煩悩の区別されたいろいろな面、忿であるとか、恨であるとか、覆であるとかですね。縁によって時と共に区別される煩悩の形を分位差別として、等流性である。つまり性質を変えないで斉しく流れ出てくるものという、分位差別と、等流性という二面をもって、煩悩に附随しながら具体的に働いてくる煩悩を随煩悩と呼ぶ。
         分位の差別(分位仮立法)
  随煩悩 {
         等流性
 随煩悩は、「根本の等流性なり」と云われていますから、根本煩悩の等流であることが解ります。等流とは同類の意味(同類等流)なのです。等流性の条件なのですが、随煩悩個別の体を持つものであるということでなければなりません。しかし、「根本を因と為す由って此(随煩悩)は有ることを得るが故に」と云われていますように、単独で生起するものではなく、必ず煩悩を因として(煩悩を依り所として)生起するということに他なりません。
 第二師の説。
 「有義は、失念は癡の一分に摂めらる、瑜伽に、此は是れ癡が分ぞと説けるが故に、癡いい念を失せ令むるを以て、故(かれ)失念と名づくという。」(『論』第六・三十左)
 (第二師の主張は、失念は癡の一分であるという。何故ならば、『瑜伽論』(巻第五十五)に「是れ癡の分である」説かれているからである。癡が念を失わせるために失念と名づけるといいいます。)
 つまり、癡は無明ですね。無明とは道理が解らない。道理に暗いわけですから、その為に忘れてしまう。無明ですから愚かですね、愚かですから忘れてしまうということが起ってくるのでしょうね。癡を所依として失念は生起するんだという主張です。
 第一師は第二師の教証を会通するために、失念が癡と相応し癡を所依として生起する等流の面から説かれているに過ぎず、失念は念の一分であると会通したわけですが、第二師は第一師の説をどのようにみているのでしょうか。『述記』にその理由が示されています。『雑集論』の記述は癡が相応する念に働きかけて念を失わしめる意味でのべているものであり、失念が念の一分であることを説いている文ではないと会通しています。
 「対法に念と倶なる分と言うは、癡彼と相応する念をして失はしむるが故に、因に会して名を解す。」(『述記』第六末・八十五右)

第三能変 随煩悩 大随煩悩 失念 (1)

2015-12-09 22:48:39 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 「護法の唯識ですと、「虚妄分別」として存在はあると。そこで「大悲」ということが出てくるのです。そして、やがてそれが『浄土論』には、大悲心とは平等心であると出てくる訳です。
 そういうことがありまして、これはただ単に何でも平等に見えるということではなく、「悲」ということが出てくるのは、逆に言いますと、「辺」に執われる。また「中」に執われるものとしてしか存在はないということです。
          高柳正裕述 預流の会『解深密経』講義より
  
 失念の心所ついて 
「諸の所縁に於いて明記(みょうき)すること能わざるを以て性と為し、能く正念を障えて散乱の所依たるを以て業と為す。」(『論』第六・三十右)
 (諸々の所縁(認識対象)に於いて明記(かって経験したことを心のなかに明らかに記憶せしめること。)することが出来ないことを以て本質とし、よく正念を障えて、散乱の所依となることを以て業とする心所である。)
 概略 
 あらゆる対象に於いてはっきりと記憶することが出来ないことを性とするのが失念の本性なのです。正しい思い(正念)を妨げ散乱の所依となる。念は明記不忘といわれ、記憶して忘れない。何を忘れないのかと云いますと正念という正しい道ですね。正見を得る目的を念じ忘れないことが、八正道の中で説かれています。八正道は正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定という八種の実践法です。正しい道とは縁起を説いた仏法ですね。仏法を忘れないということ。仏に成る道があるということを忘れてしまうのが失念といわれています。そして失念は忘れるという念と道理が判らないという無明との一分に摂められるのです。年をとってきますとどんどん記憶が薄れて物忘れが激しくなるのです、実感しています。これも煩悩のなせることなのですが、失念は物忘れが激しくなるということではなく「後生の一大事」に眼を閉じていると云う事だと思います。生まれこのかた、そして死を迎えるまで一度も自己を問う事がない、このことが失念の内容ではないかと思われます。ですから失念しているという思いもないのでしょう。ものを忘れたということであれば、記憶をしていた時期があったはずですね。記憶をしていたが、いつの時からか忘れてしまったという事も失念でしょうが、仏教でいう失念は正念を忘れるという事なのです。正念を忘れると心が千千に乱れるのですね。散乱です。ですから散乱しているということは失念をしていることなのです。正念を忘れているから心が散乱するのですね。「失念に由るが故に、散乱を生起す。・・・明らかに善等の事を記すること能わざる故に名づけて失念と為す」(『述記』)
 広説
 「失念ハ。物忘レスル心ナリ。カカル人ハ多ク散乱セリ。」(『二巻鈔』)
 失念は、妄念ともいわれます。正しくない念で、対象をはっきりと記憶しつづけることが出来ない心作用をいいます。失はうしなうこと。妄は道理に合わないこと。念は明記不忘、記憶して忘れないこと。
 善の心所第三の諸門分別において、「失念は、癡の分、及び別境の念の一分。失念の体は念と癡であり、善の心所である正念を妨げ、心を散乱せしめる働きがある。これは、念が癡の影響を受け、染汚されて失念となっているということになります。癡が翻じて無癡になれば、失念は翻じて不失念となる。念は別境の心所であり、別境は三性にわたるので、失念を翻じた不失念は、善の心所に入れず、別境の善のものに含められるのである。」と説かれていますように、失念とは、大雑把にいえば、別境の念が染汚心で生起することですね。
 念は先程も述べましたが、明記不忘、過去のことを明らかに記憶して忘れないことなのですが、この念が癡の影響を受け、染汚心で生起してきたのが失念ですから、念を失うことではないのですね。
 そして、正念を障礙し、散乱の依り所となる。散乱が起こってくる因となるものが失念であるというこなのです。
 失念モまた念を翻じて知らなければならないと思いますが、念といいますと、憶念というお言葉が耳に聞こえてきます。「憶念の心つねにして」は明記不忘の心でしょうね。聞いたこと、聞いたことを忘れず、記憶しておけという厳しさがあります。しかし大丈夫なんです。阿頼耶識は明記不忘なんです。聞いたことと、阿頼耶識が相応する、感応するところにお念仏の働きがあるのでしょう。

浄土和讃
弥陀の名号となえつつ
 信心まことにうるひとは
 憶念の心つねにして
 仏恩報ずるおもいあり
正像末和讃
弥陀の尊号となえつつ
 信楽まことにうるひとは
 憶念の心つねにして
 仏恩報ずるおもいあり
 御文
弥陀如来の本願なりと信知して、ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめても憶念の心つねにして、わすれざるを、本願たのむ決定心をえたる、信心の行人とはいうなり。
 太田久紀師が大切なことを語っておいでになります。三帰依文からですね、
 「「百千万劫難遭遇」です。今,私共はなかなか遇い難い仏教にふれているのです。こういうことが歳を取ってうると実感として解るものですね。「無上甚深微妙の法は」と云って、坊主が勝手にj分の所へ来れば助かるのだと云って、我田引水的に何となく宣伝的な、人を騙して連れてくるような気がして、若い時には何か嫌でしたが、歳を取ってきて仏様の教えに出会うということが、どんなに幸せなことかということが自分で多少でも頂けるのでしょうか。そうすると百千万劫にも遇い難い仏の縁にふれさせて頂いているという思いが強くなってきますね。これを忘れてはいけない。これを忘れると失念です。これを忘れてはいけないと思うのです。ここの失念はそういう意味で煩悩です。」
 と教えてくださっています。
 次科段からは失念も仮立されたものなのですが、何の上に仮立されたものかについて異論と正義が説かれてきます。(つづく)

第三能変 随煩悩 大随煩悩 放逸(ほういつ)(4)

2015-12-08 21:42:09 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 「慢と疑との等(ごと)きも亦此の能有りと雖も、而も彼の四に方(たくらぶる)に勢用微劣(せいゆうみれつ)なり、三の善根と遍策(へんさく)の法とを障うるが故に。此が相を推究(すいく)せむことは不放逸の如し。」(『論』第六・三十右)
 今日は傍線の部分、後半を読みます。
 放逸が懈怠・貪・瞋・痴の上に仮立されるのは、四(懈怠・貪・瞋・痴)の用が慢・疑等よりも勝れているからであると、その理由を述べています。具体的には、傍線の部分になりますが、「三の善根と遍策(へんさく)の法とを障うるが故に」、三の善根(無貪・無瞋・無痴)と及び遍策の法を障えるからである、と。遍策の法とは何か、解りにくいのですが、『述記』には「遍策の法とは、即ち是れ精進なり。」と解釈されていますので、此の四は三善根と精進の法を障える、妨害するからである。また、どのようにして知られるべきかも「善に翻じて説くべし。此は唯だ是れ仮なり。」と釈しています。
 つまりですね、善の中でも特に強い力を持つ三善根と精進をを障礙するのであるから、これに翻じて、これらの法を障礙する懈怠と貪・瞋・痴もまた強い力を持っていると推測されるのです。
 「善に翻じて説くべし」と『述記』は述べていますが、放逸は、不放逸を障礙するわけですから、不放逸の心所から翻って知られるべきことであるということなんですね。
 不放逸の心所は、
 「不放逸とは、精進と三根(三善根)との、所断修の於(うえ)に防し修するを以て性と為し、放逸を対治し、一切の世・出世間の善事を成満するを以て業と為す。」(『論』第六・六右)
 「不放逸ノ心所ハ、罪ヲフセギ善ヲ修スル心ナリ。恒ニホシキママニ罪ヲ作ヲバ、放逸ト申。是ニ相違シテ、殊ニ罪ヲバ恐レ憚リ、功徳ヲバ造ラント思フ心ナリ。」(『二巻鈔』)
 『二巻鈔』には不放逸の心所は、「罪をふせぎ善を修する心なり」と説かれています、「ふせぎ」は犯さずということになるのでしょうか。どちらかというと、怠けているほうが楽ですからね、怠け心を放逸というのでしょう、放逸が因となれば、果は極苦ですね、ですから放逸すべからず、不放逸でなければならないと教えているのでしょう。不放逸とは、怠けようとしない心なのですね。
また、不放逸とは、精進と三善根が断つ対象(断ずる対象=所断)である悪と、修むべき対象(所修)に対し、その悪を防ぎ、その善を修めることを以て性とする働きをもつ。不放逸は放逸を対治し、すべての善事を成満(成し遂げること。完成)することを以て業とし、精進と三善根の心所の四つの作用の上に仮に立てられたもの、分位仮立法なんです。詳細は、不放逸の心所の項を参照してください。
 「不放逸とは、精進と無貪・無瞋・無癡の三善根」を体(善の心所の四つの心所の上に仮に立てられたもの)として、防悪修善を本質的な働きとする心所であり、その結果として、放逸を対治し、世・出世(有漏・無漏)を通じて善事を完成させるという働きを持つということなのです。
 防悪修善と廃悪修善とは同義語だと思うのですが、この廃悪修善は散善ですね。定散二善といわれている内の散善がこの防悪修善に通ずるところの心所である、といっていいのではないでしょうか。『観経』における観法・十六の観法が説かれているわけですが、善導大師は初めの十三観を定善・後の三観を散善と分けられたのですね。何故定散二善と分けられたのでしょうか、ここは課題ですね。定散二善は廻向発願心釈で述べられているところですが、『化身土巻』(真聖p336・340)に「定善は観を示す縁・散善は行を顕す縁なり、」と押さえられて「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。ここをもって立相住心なお成じがたきがゆえに、「たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかつて開けず」(定善義)と言えり。」と結んでおいでになります。そして、定散二善をですね、「定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し」(『信巻』)と、心の問題として、教行証の背景にある信を問われているのではないでしょうか。だから、行に就いて信が問われている、就行立信ですね。散善、特に下品下生の衆生の救済は如何にしたら成り立つのか、若しすでにして救済されているならば、その証明はどこで成り立つのかが問題とされたのでしょうね。本願の念仏ですね、念仏は行だけれども、本願の念仏だと。この展開が正行・雑行の問題ですね。そこで、正行には五正行が備わっているということですね。「一に一心に專読誦・二に一心に專観察・三に一心に專礼仏・四に一心に專称仏名・五に一心に專讃嘆供養」ですが、この一心です。この一心が廻向を表わしているのでしょう。
 「上よりこのかた一切定散諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人天菩薩等の解行雑するがゆえに雑と曰うなり。元よりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、かるがゆえに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。おおよそ聖道・浄土、正・雑・定・散みなこれ回心の行なりと、知るべし。」(真聖p449)
 回向ということが非常に大事な問題として語られているのですが、やはり、この善の心所で語られていることも、護法菩薩は学としての唯識というだけではなく、発菩提心と大涅槃ですね。私たちの一挙手一投足すべて回向の行であるという自覚が救済であることを明らかにされているのではないかと思うんですね。そこに安楽土、身と土は一体ですから、すべては無駄ではない、縁起されたものとして受け取っていける世界が開かれてくるのではないかと思うのです。自然災害・人為災害を通して問題とされること、「人」を問うということが大事なことなのではないでしょうか。社会問題に携わりながら、「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。」(真聖p215)ということに気づきを得ることが要となってくるように思います。表裏の問題ですね。表の問題を通して、その背景を知る、家庭の問題・仕事の問題・社会問題・災害ボランテイア等々を通すということが大事なことですね、生きて働いていることがなければ、廻向ということも成り立ちません。身近なこと、これが一番大きな問題なのでしょう。私が出来ること、身近なことに眼を開くことなのではないでしょうか。往還二回向というけれども、親鸞聖人は現実の目の当たりに見る光景に憂慮されたのでしょう。内には関東の御同行の造悪無碍の問題、外には大飢饉・疫病の問題ですね。これらの問題が背景となって多くの書簡が残されているのではないでしょうか。
 不放逸の心所から学ばせていただく時に、「常に没している自分」に対して策励と勧められているのですが、策励を通して何者かになるのではないのでしょう、常没の凡愚の自覚が回向されているということで、そこに菩薩の働き、この菩薩の働きを業と名づけていいのではないかと思いますが、業として与えられているということなのではないでしょうかね。
 横道にそれましたが、放逸もまた、懈怠と貪・瞋・痴の上に仮立されたものであることが解りますね。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 放逸(ほういつ)(3)

2015-12-07 23:47:11 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 本科段は、「述して曰く、何を以てか、慢と疑等の上に依って放逸を立てずとならば。」(『述記』第六末・八十四左)と、本科段の説明がされています。放逸が懈怠と貪欲と瞋恚と愚痴の上に仮立され、これらと同じ働きを持つ慢や疑等の上には仮立されない理由が述べられます。
 「慢と疑との等(ごと)きも亦此の能有りと雖も、而も彼の四に方(たくらぶる)に勢用微劣(せいゆうみれつ)なり、三の善根と遍策(へんさく)の法とを障うるが故に。此が相を推究(すいく)せむことは不放逸の如し。」(『論』第六・三十右) (慢と疑等にもまたこの能(はたらき)があるとはいえ、しかし他の四つ(懈怠・貪欲・瞋恚・愚痴)に比べると勢力は劣っている。では何故この四つは慢や疑等に比べると勢力が強いのであろうか。それは、この四つは三の善根と遍策(精進)の法を障礙するからである。この放逸の相は不放逸から推測して知られるべきである。)
 慢心と疑心等にも、防悪(悪を防ぐ)ことが出来ず、善を実践することが出来ない働きを持っている。にも関わらず(何故)という質問ですね。慢と疑の心所について復習をしてみますと、
 慢の心所 ― 「云何なるをか慢と為る。己を恃(タノ)んで他の於(ウエ)に高挙(コウコ)するを以て性と為し、能く不慢を障え苦を生ずるを以て業と為す。」(『論』第六・十三右)
 疑の心所 ― 「云何なるをか疑と為る。諸の諦と理との於(ウエ)に猶予するを以て性と為し、能く不疑の善品を障うるを以て業と為す。謂く、猶予の者には善生せざるが故に。」(『論』第六・十三左)
 詳細については小随煩悩の項を参照してください。
 懈怠と貪欲と瞋恚と愚痴の四つと、慢と疑等を比較して、慢と疑等は、悪を防ぐ能力や善を実践する能力が劣っているので、放逸の心所の上には仮立されないのであると、その理由を述べているのです。
 後半の部分は、明日にします。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 放逸(ほういつ)(2)

2015-12-06 23:25:49 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 「云何(いか)なるか放逸なる。染・浄品(ぜんじょうぼん)に於いて縦蕩(じゅうとう)なるを以って性と為し、不放逸を障えて悪を増し善を損するの所依たるを以って業と為す。謂く、懈怠と及び貪と瞋と癡とに由って染・浄品の法を防(ぼう)し修(しゅ)すること能わざるを総じて放逸と名く。別に体有るものには非す。」」(『論』第六・二十九左)
 (どのようなものが放逸の心所であるのか。放逸とは染品(汚れた法)と浄品(浄らかな法)に於いて、汚れた法に対して、また浄らかな法に対して、「防し修する」(汚れた法を防ぎ、浄らかな法を修する)ことに縦蕩(じゅうとう)である。つまり、ほしいままに、欲望をそのまま放置してしまうありかたが放逸の本質であり、不放逸を障礙(妨害)し悪を増大させ、善を損なうことの依り所となることを以て業とする心所である.
つまり、懈怠と及び貪と瞋と癡の三毒の煩悩に由って染品と浄品の法を防ぎ修することが出来ないことを総じて(まとめて)放逸と名けるのである。よって、放逸には懈怠と貪と瞋と癡とは別個の固有の体は無いのであって放逸は懈怠と貪と瞋と癡の一部による仮法である。)
 懈怠と貪と瞋と癡の四つを実行するのが放逸なんですね。放逸という独自の働きがあるのではないことを明らかにしています。放逸という心所は根っこに、懈怠と三毒の煩悩が働いて縦蕩(じゅうとう)という具体相が現れていることなんです。
 私は、どっかで胡坐をかいて怠けていたい、怠けたい、怠けたいという思いが強いです。年末ジャンボが発売中ですが、あれは怠けたいという本能の表れでしょうね。遊んで暮らしたいという欲望がそうさせるんでしょうが、遊ぶだけの生活にどれだけの価値があるのかは考えない、まさに縦蕩です。元旦の朝ですか、はずれて、「あかんかったか」と夢が破れるわけですが、そして仕方なしに働いている。或は、私はこれを生き甲斐にしているという、これもまた欲望をほしいままにしている姿なんでしょう。世間で「正直者は馬鹿をみる」というでしょう。そしたら、正直者の立っている場所は何処なのかということが問われなければなりませんね。自他を分けて見ているわけですが、他は自分の心の影、心の反映であるという教えの中に、頷きを得ない自分がいることに気づきを得ないのではないでしょうか。前回にも触れましたが、涅槃と菩提を求める、菩提心ですね。菩提心がなかったならば、どんなに世間で立派と云われていましても、まさしく放逸であり、不真面目でいい加減でだらしがないと云い切られているのです。
 また、仏教界においても、いみじくも明恵上人が法然上人の『選択集』を批判され、菩提心發無の難を挙げられました。もう一つは聖道門を群賊悪獣に喩られたことに憤慨して『摧邪輪』(ざいじゃりん、正しくは『於一向専修宗選択集中摧邪輪』)全3巻、『同荘厳記』1巻を著されました。その書の中で、称名念仏こそが浄土往生の正業であり、もっぱら念仏を唱えることによって救われるとする法然の教説(専修念仏)に対して、その著作には大乗仏教における発菩提心(悟りを得たいと願う心)が欠けているとして、激しくこれを非難しているわけですが、親鸞聖人は菩提心について、『正像末和讃』において、
  「浄土の大菩提心は
    願作仏心をすすめしむ
    すなわち願作仏心を
    度衆生心となづけたり

   度衆生心ということは
    弥陀智願の回向なり
    回向の信楽うるひとは
    大般涅槃をさとるなり

   如来の回向に帰入して
    願作仏心をうるひとは
    自力の回向をすてはてて
    利益有情はきわもなし」
 と、自らのはからいを徹底的に排除されました。明鏡なんですね。大乗でいわれます無分別智とか、真如とか、無漏というのは、「明らかなる鏡の如し」と。人間は生まれながらにして、確かに分別心と共に生まれてきたのですが、分別は無分別に依って生まれたものであり、人間の所依は自然法爾のアーラヤ識なんだと、そこに戻ってこいという働きが回向として語られているのでしょうね。アーラヤ識は還相の働きなんだと思いますね。転じたアーダーナ識ですと働きはありません。「いろもなくかたもましまさず」です。善巧方便としての従果向因の働きをアーラヤ識はもっているのでしょう。大胆に言い切りますと、アーダーナは阿弥陀仏。アーラヤは法蔵菩薩、そこに無住処涅槃としての還相菩薩のお姿を見るわけです。すみません、情に流されました。

 『述記』はこの間の事情を次のように語っています。
 「述して曰く、縦とは縦恣(じゅうし)なり。蕩とは蕩逸(とういつ)なり。余の性と業とを解することは善の中の不放逸の性に翻じて応に廃立を知るべし。」(『述記』第六末・八十四左)
 縦はほしいまま・おもうまま。恣も思いのままに、ほしいままにすることを云っています。蕩はだらしなくということですね。逸も、怠けることですから、重ねて放逸の在り方を強調しているように思います。自分の欲望のままに、だらしのないことを縦蕩といい、この心が不放逸を妨げ悪という我執を増大させ善を損なうと云っているのですね。