唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 放逸(ほういつ)(2)

2015-12-06 23:25:49 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 「云何(いか)なるか放逸なる。染・浄品(ぜんじょうぼん)に於いて縦蕩(じゅうとう)なるを以って性と為し、不放逸を障えて悪を増し善を損するの所依たるを以って業と為す。謂く、懈怠と及び貪と瞋と癡とに由って染・浄品の法を防(ぼう)し修(しゅ)すること能わざるを総じて放逸と名く。別に体有るものには非す。」」(『論』第六・二十九左)
 (どのようなものが放逸の心所であるのか。放逸とは染品(汚れた法)と浄品(浄らかな法)に於いて、汚れた法に対して、また浄らかな法に対して、「防し修する」(汚れた法を防ぎ、浄らかな法を修する)ことに縦蕩(じゅうとう)である。つまり、ほしいままに、欲望をそのまま放置してしまうありかたが放逸の本質であり、不放逸を障礙(妨害)し悪を増大させ、善を損なうことの依り所となることを以て業とする心所である.
つまり、懈怠と及び貪と瞋と癡の三毒の煩悩に由って染品と浄品の法を防ぎ修することが出来ないことを総じて(まとめて)放逸と名けるのである。よって、放逸には懈怠と貪と瞋と癡とは別個の固有の体は無いのであって放逸は懈怠と貪と瞋と癡の一部による仮法である。)
 懈怠と貪と瞋と癡の四つを実行するのが放逸なんですね。放逸という独自の働きがあるのではないことを明らかにしています。放逸という心所は根っこに、懈怠と三毒の煩悩が働いて縦蕩(じゅうとう)という具体相が現れていることなんです。
 私は、どっかで胡坐をかいて怠けていたい、怠けたい、怠けたいという思いが強いです。年末ジャンボが発売中ですが、あれは怠けたいという本能の表れでしょうね。遊んで暮らしたいという欲望がそうさせるんでしょうが、遊ぶだけの生活にどれだけの価値があるのかは考えない、まさに縦蕩です。元旦の朝ですか、はずれて、「あかんかったか」と夢が破れるわけですが、そして仕方なしに働いている。或は、私はこれを生き甲斐にしているという、これもまた欲望をほしいままにしている姿なんでしょう。世間で「正直者は馬鹿をみる」というでしょう。そしたら、正直者の立っている場所は何処なのかということが問われなければなりませんね。自他を分けて見ているわけですが、他は自分の心の影、心の反映であるという教えの中に、頷きを得ない自分がいることに気づきを得ないのではないでしょうか。前回にも触れましたが、涅槃と菩提を求める、菩提心ですね。菩提心がなかったならば、どんなに世間で立派と云われていましても、まさしく放逸であり、不真面目でいい加減でだらしがないと云い切られているのです。
 また、仏教界においても、いみじくも明恵上人が法然上人の『選択集』を批判され、菩提心發無の難を挙げられました。もう一つは聖道門を群賊悪獣に喩られたことに憤慨して『摧邪輪』(ざいじゃりん、正しくは『於一向専修宗選択集中摧邪輪』)全3巻、『同荘厳記』1巻を著されました。その書の中で、称名念仏こそが浄土往生の正業であり、もっぱら念仏を唱えることによって救われるとする法然の教説(専修念仏)に対して、その著作には大乗仏教における発菩提心(悟りを得たいと願う心)が欠けているとして、激しくこれを非難しているわけですが、親鸞聖人は菩提心について、『正像末和讃』において、
  「浄土の大菩提心は
    願作仏心をすすめしむ
    すなわち願作仏心を
    度衆生心となづけたり

   度衆生心ということは
    弥陀智願の回向なり
    回向の信楽うるひとは
    大般涅槃をさとるなり

   如来の回向に帰入して
    願作仏心をうるひとは
    自力の回向をすてはてて
    利益有情はきわもなし」
 と、自らのはからいを徹底的に排除されました。明鏡なんですね。大乗でいわれます無分別智とか、真如とか、無漏というのは、「明らかなる鏡の如し」と。人間は生まれながらにして、確かに分別心と共に生まれてきたのですが、分別は無分別に依って生まれたものであり、人間の所依は自然法爾のアーラヤ識なんだと、そこに戻ってこいという働きが回向として語られているのでしょうね。アーラヤ識は還相の働きなんだと思いますね。転じたアーダーナ識ですと働きはありません。「いろもなくかたもましまさず」です。善巧方便としての従果向因の働きをアーラヤ識はもっているのでしょう。大胆に言い切りますと、アーダーナは阿弥陀仏。アーラヤは法蔵菩薩、そこに無住処涅槃としての還相菩薩のお姿を見るわけです。すみません、情に流されました。

 『述記』はこの間の事情を次のように語っています。
 「述して曰く、縦とは縦恣(じゅうし)なり。蕩とは蕩逸(とういつ)なり。余の性と業とを解することは善の中の不放逸の性に翻じて応に廃立を知るべし。」(『述記』第六末・八十四左)
 縦はほしいまま・おもうまま。恣も思いのままに、ほしいままにすることを云っています。蕩はだらしなくということですね。逸も、怠けることですから、重ねて放逸の在り方を強調しているように思います。自分の欲望のままに、だらしのないことを縦蕩といい、この心が不放逸を妨げ悪という我執を増大させ善を損なうと云っているのですね。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 放逸(ほういつ) (1)

2015-12-06 01:07:16 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 放逸の心所について概略は前に述べていますが、再録しますと、
 「放逸(ほういつ)は、罪をふせぎ善を修する心なく、恣(ほしまま)に罪を作る心なり」(『ニ巻抄』)と、ほしいままに罪を作る心であるといわれます。欲望の欲するままに放置する心ですね。それを放逸だと。
 『論』に「染・浄品(ぜんじょうぼん)に於いて防(ぼう)し修(しゅ)すること能わずして縦蕩(じゅうとう)なるを以って性と為し、不放逸を障えて悪を増し善を損するの所依たるを以って業と為す。」と。
 染品(汚れた法)・浄品(浄らかな法)に於いて汚れを防ぎ、浄らかな法を修することができないことに、歯止めがきかない状態を以って本質とするのです。染品(汚れた法)とは我執的なものであり、浄品(浄らかな法)とは執のまじらないことです。「防し修すること能わずして」ほしいままに罪を作る心なのです。「縦とは縦恣なり。蕩とは蕩逸なり。」(『述記』)縦はほしいままということです。蕩はだらしなくということですね。自分の欲望のままに、だらしのないことを縦蕩というのです。このこころが不放逸を妨げ悪という我執を増大させ善を損なうのです。
 「謂く懈怠と及び貪と瞋と癡とに由って染・浄品の法を防し修する能わざるを総じて放逸と名づく。別に体有るに非ず。」
 怠ける心・貪る心・怒る心・おろかな心の四つの心に由って、我執を防ぎ、浄らかな法を修することができないことを放逸と名づけるのであるといわれ、放逸として独自の働きがあるわけではないといっているのです。放逸の内容は懈怠・貪欲・瞋恚・愚癡なのです。だらしなく・ほしいままに歯止めが利かないことを放逸というのでしょう。悪を防ぐこともなく、善を修することもないだらしなさですね。本当に厳しい言葉が続きます。そんなことは無いと言いたいのですが世法に流されている状態では反論もできません。
 『末燈鈔』また「御消息集』(真聖P566)に放逸無慚とあります。好き勝手な振る舞いをしておきながら、他に対して慚愧の心がない、自らの罪を恥じる事のない心ですね。煩悩具足の凡夫を「放逸無慚のものども」と押さえられてあります。誰の事でもなく私の事を言いあてられているのです。
 今日(5日)は、真行寺さんで『歎異抄』第十四条の講義を聞かせていただいている中で、罪の問題ですね。罪業深重の頷きは、日常生活の中でどのように作用しているのかを考えておりました。
 私の生きざまは、我執しかない、それさえも分からないくらい闇の中で蠢ていると思っている、しかし、闇を知るのは仏の世界。仏のみが知っておられる世界でしょう。だから闇を切り開いてくる働きがお念仏ですね。
 お念仏に出遇ったからといって、何も生活が変わるわけではないのですが、好き勝手な振る舞いをしておきながら、他に対して慚愧の心がないという痛みは感じるのでしょう。このような痛みが悲心となって如来の大悲心と呼応し、生きていると思っていた傲慢な心が、傲慢であっという慚愧の心をいただくのでしょう。そこに、生きていると思っていたが、生かされてある〝いのち〟に限りない恩徳をいただくことのできる生活に転ずることができるのではないでしょうか。
 大随煩悩を学んでいますと、こんな自分ではダメだという思いが強いですね。廃悪修善、悪を廃し(断煩悩)善を修め(定善)よと聞こえてきます。しかしね、ここは私の心の内景を語っているんですね。
 親鸞聖人は、「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。ここをもって立相住心なお成じがたきがゆえに、「たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかつて開けず」(定善義)と言えり。」と。「常没の凡愚」という開けですね。「無始の時より来た虚妄に熏習せし内因力の故に、恒に身と倶なり・・・任運にして転ず」という、ここの頷きというか、開けですね。ここにしか手を合わすことの出来る世界は生まれてこないのではないですか。
 『一念多念文意』の「また王日休のいわく、「念仏衆生 便同弥勒」(龍舒浄土文)といえり。「念仏衆生」は、金剛の信心をえたる人なり。「便」は、すなわちという、たよりという。信心の方便によりて、すなわち正定聚のくらいに住せしめたまうがゆえにとなり。「同」は、おなじきなりという。念仏の人は無上涅槃にいたること、弥勒におなじきひとともうすなり。また『経』(観経)にのたまわく、「若念仏者 当知此人 是人中 分陀利華」とのたまえり。「若念仏者」ともうすは、もし念仏せんひとと、もうすなり。「当知此人 是人中 分陀利華」というは、まさにこのひとはこれ、人中の分陀利華なりとしるべしとなり。これは如来のみことに、分陀利華を、念仏のひとにたとえたまえるなり。このはなは、「人中の上上華なり、好華なり、妙好華なり、希有華なり、最勝華なり」(散善義意)と、ほめたまえり」と、何故、このようなことが言えるのか。
 また、御和讃(正像末和讃第二十七首)に語られます
  「真実信心うるゆえに
   すなわち定聚にいりぬれば
   補処の弥勒におなじくて
   無上覚をさとるなり」
 は、「自分の思いだけで生きてきたな」「これからも自分の思いで生きていくんだろうな」「それしかないよな」という心が限りない慚愧心をいただいてくるんでしょうね。慚愧心が真実信心の内実を語っている、「無上覚」に至る道だと。