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「云何(いか)なるか放逸なる。染・浄品(ぜんじょうぼん)に於いて縦蕩(じゅうとう)なるを以って性と為し、不放逸を障えて悪を増し善を損するの所依たるを以って業と為す。謂く、懈怠と及び貪と瞋と癡とに由って染・浄品の法を防(ぼう)し修(しゅ)すること能わざるを総じて放逸と名く。別に体有るものには非す。」」(『論』第六・二十九左)
(どのようなものが放逸の心所であるのか。放逸とは染品(汚れた法)と浄品(浄らかな法)に於いて、汚れた法に対して、また浄らかな法に対して、「防し修する」(汚れた法を防ぎ、浄らかな法を修する)ことに縦蕩(じゅうとう)である。つまり、ほしいままに、欲望をそのまま放置してしまうありかたが放逸の本質であり、不放逸を障礙(妨害)し悪を増大させ、善を損なうことの依り所となることを以て業とする心所である.
つまり、懈怠と及び貪と瞋と癡の三毒の煩悩に由って染品と浄品の法を防ぎ修することが出来ないことを総じて(まとめて)放逸と名けるのである。よって、放逸には懈怠と貪と瞋と癡とは別個の固有の体は無いのであって放逸は懈怠と貪と瞋と癡の一部による仮法である。)
懈怠と貪と瞋と癡の四つを実行するのが放逸なんですね。放逸という独自の働きがあるのではないことを明らかにしています。放逸という心所は根っこに、懈怠と三毒の煩悩が働いて縦蕩(じゅうとう)という具体相が現れていることなんです。
私は、どっかで胡坐をかいて怠けていたい、怠けたい、怠けたいという思いが強いです。年末ジャンボが発売中ですが、あれは怠けたいという本能の表れでしょうね。遊んで暮らしたいという欲望がそうさせるんでしょうが、遊ぶだけの生活にどれだけの価値があるのかは考えない、まさに縦蕩です。元旦の朝ですか、はずれて、「あかんかったか」と夢が破れるわけですが、そして仕方なしに働いている。或は、私はこれを生き甲斐にしているという、これもまた欲望をほしいままにしている姿なんでしょう。世間で「正直者は馬鹿をみる」というでしょう。そしたら、正直者の立っている場所は何処なのかということが問われなければなりませんね。自他を分けて見ているわけですが、他は自分の心の影、心の反映であるという教えの中に、頷きを得ない自分がいることに気づきを得ないのではないでしょうか。前回にも触れましたが、涅槃と菩提を求める、菩提心ですね。菩提心がなかったならば、どんなに世間で立派と云われていましても、まさしく放逸であり、不真面目でいい加減でだらしがないと云い切られているのです。
また、仏教界においても、いみじくも明恵上人が法然上人の『選択集』を批判され、菩提心發無の難を挙げられました。もう一つは聖道門を群賊悪獣に喩られたことに憤慨して『摧邪輪』(ざいじゃりん、正しくは『於一向専修宗選択集中摧邪輪』)全3巻、『同荘厳記』1巻を著されました。その書の中で、称名念仏こそが浄土往生の正業であり、もっぱら念仏を唱えることによって救われるとする法然の教説(専修念仏)に対して、その著作には大乗仏教における発菩提心(悟りを得たいと願う心)が欠けているとして、激しくこれを非難しているわけですが、親鸞聖人は菩提心について、『正像末和讃』において、
「浄土の大菩提心は
願作仏心をすすめしむ
すなわち願作仏心を
度衆生心となづけたり
度衆生心ということは
弥陀智願の回向なり
回向の信楽うるひとは
大般涅槃をさとるなり
如来の回向に帰入して
願作仏心をうるひとは
自力の回向をすてはてて
利益有情はきわもなし」
と、自らのはからいを徹底的に排除されました。明鏡なんですね。大乗でいわれます無分別智とか、真如とか、無漏というのは、「明らかなる鏡の如し」と。人間は生まれながらにして、確かに分別心と共に生まれてきたのですが、分別は無分別に依って生まれたものであり、人間の所依は自然法爾のアーラヤ識なんだと、そこに戻ってこいという働きが回向として語られているのでしょうね。アーラヤ識は還相の働きなんだと思いますね。転じたアーダーナ識ですと働きはありません。「いろもなくかたもましまさず」です。善巧方便としての従果向因の働きをアーラヤ識はもっているのでしょう。大胆に言い切りますと、アーダーナは阿弥陀仏。アーラヤは法蔵菩薩、そこに無住処涅槃としての還相菩薩のお姿を見るわけです。すみません、情に流されました。
『述記』はこの間の事情を次のように語っています。
「述して曰く、縦とは縦恣(じゅうし)なり。蕩とは蕩逸(とういつ)なり。余の性と業とを解することは善の中の不放逸の性に翻じて応に廃立を知るべし。」(『述記』第六末・八十四左) 縦はほしいまま・おもうまま。恣も思いのままに、ほしいままにすることを云っています。蕩はだらしなくということですね。逸も、怠けることですから、重ねて放逸の在り方を強調しているように思います。自分の欲望のままに、だらしのないことを縦蕩といい、この心が不放逸を妨げ悪という我執を増大させ善を損なうと云っているのですね。