唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩  不正知 (2) 教証から

2015-12-27 11:32:48 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 『述記』の説明と、諸論の同意について
 『述記』によりますと、不正知の心所は「「述して曰く、境に迷って而も闇鈍(あんどん)なるに非ず。ただ是れ錯謬邪解(しゃくみょうじゃげ。認識的に間違いっている邪な理解)するを不正知と名く。不正知なれば多く業を発す。多く悪の身語業を起こし、而も戒を犯す。顕揚、対法、五蘊みな同なり。」(『述記』第六末・八十八右)
 不正知は、闇鈍(愚か)である為に、認識対象に迷って(認識対象が理解できず)いるのではない。ただ錯謬邪解であると、間違って理解している、それは不正である、と。対象を理解することが誤っていますから、多くは悪の身業と語業を起こして戒を犯すと説明していました。
 『述記』では、悪の身業と語業(多く悪の身語業を起こし)て、しかも戒を犯すと説明し、『顕揚論』や『雑集論』そして『五蘊論』に同旨の説明がされていると述べていますが、これらの文献は、不正知に由る身・口・意の三つの悪業が毀犯(きほん。戒をやぶること)の所依となると説明して、『述記』の説くところと少し相違する(『述記』では意業を含めていない)わけです。
 しかし、第二能変における八遍染師の護法説から伺えることは、身・口・意の三業によって戒に違背し、戒を犯すと述べているところから、毀犯の意業は深層に働き、表層は身・口の二業であることから、こういう所論になっているのか、明らかではありませんが推測されるわけです。
 この辺の事情は余談になりますが、八遍染の護法の所論から伺いますと、
 失念と不正知とは遍染の随煩悩であることを明らかにする中で、
「若し失念と不正知が無くんば、如何ぞ能く煩悩を起こして現前せん」 という問と答えが述べられます。
 煩悩が生起する時には必ず失念と散乱不正知が存在する、と六遍染師は主張してしていましたが、護法はこの説を踏襲してこの三は遍染の随煩悩であると説いています。
 「要ず曾受けし境界の種類を縁じて、忘念と及び邪簡択とを発起して、方に貪等の諸の煩悩を起こすが故に」
 失念は正念を障へ散乱を所依とし、また不正知は正知を障へ毀犯(罪を犯すこと)することを業と為す、といわれていますように煩悩は失念と不正知によって起こされるわけです。その性は染汚であり、不善と有覆無記であり。この二の性は穢らわしい心があるので染汚性の法であるといわれるわけです。
 正念を障えるから散乱が生起し、正知を障えるから悪を為すという、即ち失念と不正知が煩悩を起こして現前させ、正しい認識理解をあやまることが煩悩を生起させるわけですから、私たちが迷っているという、正法に対する疑惑が煩悩を生起させ現前させるのであると教えていると思われます。
 横道に外れますが、
 根本の四煩悩と五遍行と別境の慧と随煩悩の八が第七末那識と相応する、といわれ、捨受相応になります。第七末那識は無始已来任運に一類に相続しますから、憂・喜・苦・楽の変異受とは相応しないのです。
 第七末那識の性格は恒審思量といわれていますように、恒に細やかに我を思いつづけている働きなのです。ですから恒に真実を覆い隠し、心を染汚していくのです。そのことによって自らが自らを縛っていくという性格をもっています。
 そして八つの大随煩悩が第七末那識と倶に働くわけです。根本煩悩と倶に八大随煩悩が働きます。この大随惑といわれる煩悩は不善と有覆無記との両方に働きますが、第七末那識と相応するときには有覆無記として働きます。不善は麤動に働きますが、有覆無記の働きは審細なのです。自覚することが非常に難しいというより、不可能なわけです。ここに聞法の課題があるように思われます。ついつい、自分が聞いているという立場になって、自己判断という物差しで、法をも分別していますからね。
 「しかるに常没の凡愚・流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽実に獲ること難し。何をもってのゆえに。」(真聖p211)という課題です。
 つまり、別境の慧の心所が第七末那識と相応するということです。慧の心所は「所観の境の於に簡択するを以て性と為す」といわれています。我と我所を簡択する心所なのですね。自分と自分のものを明らかにし、恒に自分の利益になるように働いていくエゴイズムです。それが自と他(自尊損他)を分ける働きを持つ慧の心所なのです。無意識的に、いわば自己防衛本能として意識の底に漂っている我執なのです。我執を乗り越えようとする意識を覆い隠そうとする潜在的意識が働いているのです。
 護法は、根本の四煩悩と五遍行と別境の慧と随煩悩の八が第七末那識と相応すると説き、忘念(失念)を念と癡の倶一分とし、不正知を慧と癡の倶一分の随煩悩とするならば、染心に遍在して生起すると説きます。何故ならば癡はあらゆる煩悩・随煩悩と相応するからである。忘念と不正知は癡と倶に働くから第七末那識相応の心所であるといい得るのである、と。
 『大乗阿毘達磨雑集論』巻第一の不正知の心所については後程考えたいと思います。