唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩  不正知 (1) 概略

2015-12-24 23:01:22 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 不正知について学びます。先ず、概略を述べます。
 「不正知は、しるべき事をあやまちて知る心なり。」(『ニ巻抄』)
 境に於いて誤解を起こさせる心所なのです。正しく知るという事は智慧ですね。それに対し不正知は間違って知る心です。

 「云何なるか不正知(ふしょうち)。所観(しょかん)の境に於いて謬解(みょうげー誤った理解)するを以って性と為し。能く正知を障えて毀犯(きぼんーそこなうこと)するを以って業と為す。謂く不正知の者は、毀犯する所多きが故に。」(『論』第六・三十一左))

 対象に於いて謬(びゅう)は誤る、誤解することですね。解は理解、了解で、謬解は誤った了解ということになります。それが不正知の性格であると云われています。此の事に由り、正知という、はっきりと心にとめていることを妨げ損なうことが行為となって現れるのですね。『成唯識論』宗前敬叙分の造論の意趣に「迷・謬」とありました。迷は無明・縁起の理や真如の理に昏いのですが、謬は厄介ですね。知っているのですが疑っているのです。疑惑です。仏智疑惑という謗法です。知ったかぶりの仏教ということがありますね。知っているのですが間違って理解をしているのです。その誤った理解が正知を邪魔をする不正知です。
 或は、仏教を学んでいても、世間一般の学問と同じように、対象学としての仏教。仏教と自己が切り離されて学んでいる。生活の現場から自己が問われていることへの眼差しが欠如している。自己が問われないところが不正知の本質になるのでしょうが、不正知は何を以て生起するのか、異論があり、三師の説が挙げられ、第三師の護法の説が正義とされます。
 1. (異説)不正知は慧の一分に摂める。
 2. (異説)不正知は癡の一分に摂める。
 3. 護法の正義は、不正知は倶の一分に摂める。(慧と癡の両方の働きによる。)
 我執によって空・無我の理が覆われ、正しく簡び分けられないのです。第一説の慧の一分ということですが、慧は正しく分別するということですね。簡択の義といわれていました。不正知には慧という心所が働いているといわれているのです。しかし間違って働いているという事が厄介なのです。それが無知という無明煩悩と共に働いてくるのが不正知なのです。これもまた「染心に遍ず」といわれ、「散乱」と同じく悪と有覆無記の心です。
 「境に迷って闇鈍に非ざるなり。但だ是れ錯謬して邪に解するを不正知と名づく。不正知、多く業を発し。多く悪の身語業を起こして、多く惑を犯す。」(『述記』) 
 間違った理解は、間違った行為を起こし、間違った身・口・意の三業を起こして多くの惑、迷いを生み出してくる。惑染の凡夫といいあてられています私ですが、何が惑染かといいますと、はっきりと不正知であると、唯識無境といいますが、境に迷っているのではないですね。自己の執着が錯謬させているのです。自己の利益が優先されますから道理に反し邪に理解をしますから惑をもたらして来るのです。 
「不正知は倶の一分に摂めらる、前の二の文に影略(ヨウリャク)して説けるに由るが故に。論に復、此れは染心に遍ずと説けるが故にと云う。」(『論』)
 不正知は慧と癡の倶の一分である。何故ならば、前に説かれていた『雑集論』と『瑜伽論』の二つの文に影略して説かれているからである。そして、さらに『論』にまた、「不正知は染心に遍く存在する」と説かれているからである。
 詳細は明日以降に述べます。