唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 懈怠(けだい)(2)怠の二面性

2015-12-02 22:48:09 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 今日は、「悪に於て策励(さくれい・努力すること)することも亦た懈怠である」ことを明らかにしていきます。
 懈怠は善を修し、悪を断ずることを怠ける心だと前科段で説明されましたが、護法はそれだけではなく、懈怠は善法を退けるから、悪事に策勤(さくごん)することも懈怠であると云います。
 なんか、すごいことをいっていますね。私たちはなかなか道を求める、「往生極楽の道を問う」ことはできませんが、世間の事に於て「ああでもない、こうでもない」と愚痴を言いつつ一生懸命に生きていますが、このことの全体が「怠ける心」であると指摘しているのです。
 「諸染(しょぜん)の事(じ)の於(うえ)にして策勤(さくごん)するをば亦懈怠と名く、善法を退けるが故に、」(『論』第六・二十九左)
 染(ぜん) ― けがれていること。欲望・愛欲、対象に執着することで不善(悪)のこと。
 現代語訳としては、もろもろの悪事に対して、策勤(はげまし、努力すること)することをまた懈怠と名づけるんだ、と。何故ならば、善法を遠離するからである。
 『新導本』巻第六p31では、染に悪事と傍注されています。
 初期仏教の教えの中で、四諦八正道が説かれていますが、その中で具体的な生活の有りようが説かれていますね。正見・正思・正業・正命・正精進・正念・正定という、この正しい修行法によって、苦を滅却し、平安なる境地に到達できるという教えです。
 懈怠の反対が(正)精進ですが、ここに(・)に入れました(正)が仏教でいうところの精進なんですね。正の反対は邪ですから、私たちがいうところの精進は邪精進ということになる指摘なんです。 
 そのことを、「諸染(しょぜん)の事(じ)の於(うえ)にして策勤(さくごん)するをば亦懈怠と名く」と云っているのです。つまり、怠惰であり、懈怠であると。その理由が「善法を退ける」からである、と。
 造論の主旨の中で、私たちが迷い謬っているのは、二空(我空・法空)に於てなんだと。だから二(涅槃と菩提)の正と解を生ぜしめんが為にこの論を造られたのであると述べられていました。
 つまりですね、涅槃と菩提、究極は無住処涅槃ですね。これを求める在り方が正精進なんです。それに違逆する在り方は、すべて懈怠だと、護法は言い切っているんですね。
                   つづく