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散乱の別相
「散乱(さんらん)の別相(べっそう)と云うは、謂く、即ち躁擾(そうにょう)なるぞ、倶生(くしょう)の法をして皆(みな)流蕩(るとう)なら令(し)むるが故に。」(『論』第六・三十一右)
(散乱の別相とは、つまり、躁擾(心がさわがしく乱れること)である。
躁(そう) ― さわがしいという意味で、散を表す。
擾(にょう) ― わずらわしい。みだれるという意味で、乱を表す。
倶に生起したものは、すべて流蕩ならしめるからである。)
散乱の別相は騒がしく乱れること。散乱と倶に生起した心・心所をすべて乱れ動かしてしまうからであると説明しています。つまり、散乱の本質は躁擾であり、心が乱れることが、さまざまな認識対象に於いて心・心所を流蕩ならしめ、倶生の法をみな流蕩ならしめるということなんです。
散の反対語は定です。定を障礙するものが散の働きになります。私の心はいつでもどっかに飛び去っています。落ち着きがありません。仕事をしていても、今日は何処に飲みに行こうか。今度の休みは何をしようか等々、さまざまな誘惑に翻弄されて心が落ち着きません。「さまざまな誘惑に翻弄されて心が落ち着きません。」と言いましたが、違うんですね。落ち着くような心を持っていないことが本音です。落ち着かない心が、さまざまな誘惑を呼び込んでくるんですね。
「今夜も誘惑に負けてしまった」といいますが、誘惑に負けるような心しか持ち合わせていなかったのです。何とかなるような心ではなく、散乱の本質は躁擾であると、護法さんは見抜いたんです。
次の科段は「前説を破して言う」(第二師の説を論破します。)
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「若し彼(か)の三に離れて別の自体無しといわば、別に三摩地(さんまじ)を障(さ)うとは説く応(べ)からず。」(『論』第六・三十一右)
(もし貪・瞋・癡と離れて散乱固有の自体が無いというのであれば、散乱固有の働きとして三摩地(定)を障礙するとは説かれないはずである。)
「別して定を障う、故に是れ実有なり。然らずんば通して余を障うと説くべからざるが故に。」(『述起』第六末・八十六左)
つまり、『論』及び『述起』の所論から、散乱固有の働きとして三摩地を障礙すると説かれているのは、散乱は貪・瞋・癡の上に仮に立てられた心所ではなく、固有の自体を持つ心所であることがわかります。
「散乱固有の働きとして三摩地を障礙すると説かれている」のは、散乱の心所の定義を見ていただければわかりますが、そこでは「能く正定を障え悪慧が所依たるを以て業と為す。」と散乱の具体相が語られていました。ですから、第二師の主張のように、「貪・瞋・癡と離れて散乱固有の自体が無いというのであれば」・「散乱固有の働きとして三摩地(定)を障礙するとは説かれないはずである」ということになります。