唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 失念 (2) 異説

2015-12-10 22:34:28 | 第三能変 随煩悩の心所
  
 
 失念も仮立されたものなのですが、何の上に仮立されたものかについて異論と正義が説かれてきます。三師の説が挙げられていますが、第三師の説が、護法の正義になります。
 初師の説。
 「有義は、失念は念の一分に摂めらる。是の煩悩と相応する念と説けるが故に。」(『論』第六・三十右)
 第一師の主張は、失念は念の一分であるという。何故なら、『大乗阿毘達磨雑集論』巻第一(大正・3・699b09)に「忘念者。煩惱相應念爲體。」(忘念とは、煩悩と相応する念を体とす)と説かれているからである。
 念は明記不忘(みょうきふもう)忘れないということ。第一師は、失念も忘れないという念の一部だと。忘れないということなんだが、だんだんと忘れないという気持ちが薄らいでいくんだと主張します。
 「此れは是れ念の一分なり。『対法』(大乗阿毘達磨雑集論)に「是れ煩悩と相応する念と説く」が故に。『瑜伽論』(巻第五十五)に「是れ癡の分と」説くは、是れ等流なるが故に」(『述記』第六末・八十五右)
 (第一師は自説の正当性を証する為に『対法論』を教証として挙げましたが、『瑜伽論』に「失念は癡の分である」と説かれているのは、失念が癡の等流であることを「癡の分」と説いているに過ぎないといいます。)
 少し返りまして、随煩悩の項を思い出してください。随煩悩とは、
「論に曰く、唯だ是は煩悩の分位差別(ふんいしゃべつ)なり。等流性なるが故に随煩悩と名づく。」(『論』第六・二十三右) 
 論に説かれている随煩悩は、煩悩の分位の差別であり、また煩悩の等流である。
 煩悩の分位の差別を明らかにしてしてきます所に、色々な形を持って現れてくる、根本煩悩の区別されたいろいろな面、忿であるとか、恨であるとか、覆であるとかですね。縁によって時と共に区別される煩悩の形を分位差別として、等流性である。つまり性質を変えないで斉しく流れ出てくるものという、分位差別と、等流性という二面をもって、煩悩に附随しながら具体的に働いてくる煩悩を随煩悩と呼ぶ。
         分位の差別(分位仮立法)
  随煩悩 {
         等流性
 随煩悩は、「根本の等流性なり」と云われていますから、根本煩悩の等流であることが解ります。等流とは同類の意味(同類等流)なのです。等流性の条件なのですが、随煩悩個別の体を持つものであるということでなければなりません。しかし、「根本を因と為す由って此(随煩悩)は有ることを得るが故に」と云われていますように、単独で生起するものではなく、必ず煩悩を因として(煩悩を依り所として)生起するということに他なりません。
 第二師の説。
 「有義は、失念は癡の一分に摂めらる、瑜伽に、此は是れ癡が分ぞと説けるが故に、癡いい念を失せ令むるを以て、故(かれ)失念と名づくという。」(『論』第六・三十左)
 (第二師の主張は、失念は癡の一分であるという。何故ならば、『瑜伽論』(巻第五十五)に「是れ癡の分である」説かれているからである。癡が念を失わせるために失念と名づけるといいいます。)
 つまり、癡は無明ですね。無明とは道理が解らない。道理に暗いわけですから、その為に忘れてしまう。無明ですから愚かですね、愚かですから忘れてしまうということが起ってくるのでしょうね。癡を所依として失念は生起するんだという主張です。
 第一師は第二師の教証を会通するために、失念が癡と相応し癡を所依として生起する等流の面から説かれているに過ぎず、失念は念の一分であると会通したわけですが、第二師は第一師の説をどのようにみているのでしょうか。『述記』にその理由が示されています。『雑集論』の記述は癡が相応する念に働きかけて念を失わしめる意味でのべているものであり、失念が念の一分であることを説いている文ではないと会通しています。
 「対法に念と倶なる分と言うは、癡彼と相応する念をして失はしむるが故に、因に会して名を解す。」(『述記』第六末・八十五右)