唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 放逸(ほういつ)(3)

2015-12-07 23:47:11 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 本科段は、「述して曰く、何を以てか、慢と疑等の上に依って放逸を立てずとならば。」(『述記』第六末・八十四左)と、本科段の説明がされています。放逸が懈怠と貪欲と瞋恚と愚痴の上に仮立され、これらと同じ働きを持つ慢や疑等の上には仮立されない理由が述べられます。
 「慢と疑との等(ごと)きも亦此の能有りと雖も、而も彼の四に方(たくらぶる)に勢用微劣(せいゆうみれつ)なり、三の善根と遍策(へんさく)の法とを障うるが故に。此が相を推究(すいく)せむことは不放逸の如し。」(『論』第六・三十右) (慢と疑等にもまたこの能(はたらき)があるとはいえ、しかし他の四つ(懈怠・貪欲・瞋恚・愚痴)に比べると勢力は劣っている。では何故この四つは慢や疑等に比べると勢力が強いのであろうか。それは、この四つは三の善根と遍策(精進)の法を障礙するからである。この放逸の相は不放逸から推測して知られるべきである。)
 慢心と疑心等にも、防悪(悪を防ぐ)ことが出来ず、善を実践することが出来ない働きを持っている。にも関わらず(何故)という質問ですね。慢と疑の心所について復習をしてみますと、
 慢の心所 ― 「云何なるをか慢と為る。己を恃(タノ)んで他の於(ウエ)に高挙(コウコ)するを以て性と為し、能く不慢を障え苦を生ずるを以て業と為す。」(『論』第六・十三右)
 疑の心所 ― 「云何なるをか疑と為る。諸の諦と理との於(ウエ)に猶予するを以て性と為し、能く不疑の善品を障うるを以て業と為す。謂く、猶予の者には善生せざるが故に。」(『論』第六・十三左)
 詳細については小随煩悩の項を参照してください。
 懈怠と貪欲と瞋恚と愚痴の四つと、慢と疑等を比較して、慢と疑等は、悪を防ぐ能力や善を実践する能力が劣っているので、放逸の心所の上には仮立されないのであると、その理由を述べているのです。
 後半の部分は、明日にします。