唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 散乱(4)掉挙と散乱の相違について

2015-12-18 23:06:53 | 第三能変 随煩悩の心所
  
 本年度の講義は、本日の聞成坊様での学びをもって終了させていただきました。幾度となく折れそうな心を、暖かい目で応援していただきました皆様方には感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。m(__)m 年明けは一月十日の正厳寺様からスタートです。よろしくお願いいたします。

 「掉挙(じょうこ)と散乱(さんらん)と二が用(ゆう)何ぞ別なるや。」(『論』第六・三十一右)
 「下は差別(しゃべつ)を顕す。此は掉(挙)と散(乱)との用、何の差別と問う。」(『述記』第六末・八十六左)
  掉挙と散乱の二つの作用jはどのような相違があるのか、と問いを立てています。
 掉挙と散乱の相はよく似ているんですね。掉挙の別相は、囂動(きょうどう・騒動しく動くこと)であり、掉挙と倶生する心心所を寂静ならしめないのですが、散乱の別相は、躁擾(そうにょう)であり、倶生の心心所をみな流蕩(るとう)ならしめるということなんですね。
 大雑把にいうと、ともに騒々しい、騒がしいということと、寂静ならしめない、定を障えるということで非常に似通っているわけです。そうするならば、掉挙と散乱が違うのはわかるけれど、どこがどのように違うのかという疑問が立ってきます。この疑問に答えるのが、次科段の論主の答えになります。

 「彼(掉挙)は解(げ)を易(か)え令(し)め、此(散乱)は縁を易え令む。」(『論』第六・三十一右
 (掉挙は認識対象に対する理解内容が一境多解であり、散乱は一心多境である。)
 「述して曰く、下は論主の答え。掉挙は心を挙(こ)す。境は是れ一なりと雖も、倶生の心心所をして解が数転易せしむ。即ち一境において多解するなり。散乱の功は心をして縁を易え境を別なら令む。即ち一の心において多境を易えるなり。」(『述記』第六末・八十六左)
 掉挙の「解」はこちら側(能縁)の了解であり、「易」はかえしめる、変化させるという意味で、心を高ぶらせて、認識対象は一であっても、その理解内容は数々変えさせる働き(囂動)であるということなんですね。
 散乱は「所縁を易え令む」といっています。一つの心心所の認識対象を次々に変えていく作用を持つ心所であるということなんです。
 作用が全く違うわけですね。
 認識対象に対して、多くの理解を生ずるのが掉挙であり、心心所は一つだけれど、多くの認識対象をもつのが散乱であると、その相違点を説明しています。

 「問、五識等の如き一念の染心において、如何ぞ易えると説くや。」(『述記』)と発題をして『論』の次科段が述べられます。
 (五識などは、一刹那という間に、どうして理解内容や認識対象をかえることが出来るのか?という問題提起です。