唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 信について (15) 信の作用 (13)

2013-05-18 00:12:37 | 心の構造について

 お知らせ

 『心の構造について』 第二回目講義を、旭区千林 正厳寺様で来たる5月19日午後三時より開講させていただきます。今回は第八阿頼耶識の構造と信の作用について共に考えてまいりたいと思っています。

 5月25日は、八尾市本町 聞成坊様で『成唯識論講義』第6回目を開講します。今回は分別起の我執について考えます。

        ー      ・      ー

 異説を述べる。先ず上座部の説、或は大乗の異師の説です。

 「有るが説かく、信は愛楽するを以て相と為すという。」(『論』第六・二右)

 有る義は次のように説いている、信は愛楽するということを以て自相とする、と。ここでいう愛楽とは、対象を愛し楽うこと、欲のことである。

 「論。有説信者愛樂爲相 述曰。上座部義。或大乘異師。謂愛樂彼法故。」(『述記』第六本下・六左。大正43・434c)

 (「述して曰く。上座部の義なり。或は大乗の異師、謂く彼の法を愛楽するが故に。」)

 第二は、論主(護法は) 論破していう。

 「応に三性に通ずべし、体即ち欲なる応し、又苦集は信の所縁に非ざる応し。」(『論』第六・二右)

 上に述べてきたように、上座部や大乗の異師の説である、「信は愛楽を以て相と為す」ということならば、信はまさに三性(善・悪・無記)に通じてしまうことになる。そのような信の体は欲になるであろう。また、苦諦と集諦は信の所縁ではない、苦諦や集諦は愛楽されるようなものではないからである。しかし、上座部や異師の説であるならば、苦諦も集諦も信の所縁になってしまう。このような主張は容認することはできず、誤りである、と論破しています。

 信の自相は「心を澄浄する」ことを自相としているのですから、欲を対象とするならば、悪をも愛楽する対象となるという問題が起こる。信は欲の心所ではなく、悪・無記を対象とするものではないことから、上座部・大乗の異師の説は退けられる。

 次は、苦諦・集諦は信の所縁ではないということを論破します。  (つづく)

 


第三能変 ・善の心所 信について (14) 信の作用 (12)

2013-05-16 22:50:27 | 心の構造について

 第二義(護法会通の第二義)

 「又諸の染法は各別に相有り。唯だ不信のみ有って自相渾濁(じそうこんじょく)し、復能く余の心心所をも渾濁す、極めて穢物(えもつ)の、自も穢れ他をも穢すが如し。信は正しく彼に翻ぜり、故に浄を以て相と為す。」(『論』第六・二右)

 また諸々の染法には各別に自相がある。その中でただ不信のみ自相が濁っており、不信はまたよく他の心心所をも濁らせるのである。それは極めて穢い物が、自らも穢れ、他をも穢れさすようなものである。それに対し、信は、不信の対極にある心所である。その為に心を浄らかにすることを以て自相とする。

 護法は、信の心所の本質的な働きは、自らも浄く、他の心心所をも浄らかにする心所である、と会通しています。不信とは染法であり、貪愛等の煩悩であるという。不信は「心心所を穢すことを以て性とし、浄信を妨害し、懈怠の依り所となることを以て業とする」心所なのですね。懈怠は不信によって生じ、不信とは、具体的には貪愛等の煩悩であり、惑・業・苦という循環的な苦悩の因になるのですね。

 「論。又諸染法至故淨爲相 述曰。此第二義。所餘一切染法等中。各別有相。如貪・愛等。染心所内唯有不信。自相渾濁。渾濁餘心等令成染汚。如極穢物自穢穢他。亦如泥鰍動泥濁水。不信亦爾。唯一別相渾穢染汚。得總染也。信正翻彼不信渾濁。故以淨爲信之相也。下破有二。如文可知也。」)(『述記』第六本下・六右。大正43・434c)

 (「述して曰く。此れ第二義なり。所余の一切の染法等の中に各別に相有り。貪愛等の如し。染の心所の内に唯だ不信有り。自相渾濁にして、余の心等を渾濁して染汚を成ぜ令む。極穢の物の自を穢し、他をも穢するが如し。亦泥鰍(どじょう)の泥を動かし水を濁すが如し。不信も亦爾なり。唯一の別相のみ渾穢染汚して総じて染なることを得るなり。信は正しく彼の不信の渾濁に翻ずるが故に。浄を以て信の相と為すなり。下は破なり、二あり、文の如く知るべきなり。」) 


第三能変 ・善の心所 信について (13) 信の作用 (11)

2013-05-15 22:45:06 | 心の構造について

 信以外の慚等の十の善の心所は、体相は善ではあるが、浄を以て相とは為さない、即ち信のみが心心所を浄ならしめるのである、ということを明らかにする。

 「慚等は善なりと雖も、浄を以て相と為るに非ず、此は浄ならしむるを以て相と為す、彼に濫ずる失無し。」(『論』第六・二右)

 信以外の慚等の善の心所は、善ではあるとはいえ、浄をもって自相(自性・体性・体相)とするのではない。此れ(信)は心を浄らかにすることを以て自相とする、その為に慚等の十の善の心所と信が混乱する過失は無いのである。

 「論。慚等雖善至無濫彼失 述曰。其餘慚等體性。雖善令心等善。不以淨爲相。但以修善・羞恥等爲相。此信以淨爲相。無濫慚等之失。非慚慚故。信是無慚。非信信故。慚是不信。今此淨者。信體之能。」(『述記』第六本下・六右。大正43・434c)

 (「述して曰く。其の余の慚等は體性善なりと雖も、心等をして善なら令む、浄を以て相とは為さず。 但だ善を修して羞恥(しゅうち)する等を以て相と為す。此の信は浄ならしむるを以て相と為す。慚等に濫ずるの失無し。慚にして慚ずる故に信は是れ慚なること無きに非ず。信にして信ずるが故に慚は是れ信ならざるに非ず。今は此の浄とは信の體の能なり。」)

 『了義燈』はこの『述記』の所論を釈して、

「疏言非慚慚故信是無慚非信信故慚是不信者。顯體各異。非以信令心淨。慚是不信。非以慚令心善。信是無慚。諸餘廣略性・業同別准此釋知。」(『了義燈』第五末・初左。大正43・754a)

 (「疏に、慚として慚するに非ざる故に、信は是れ慚なること無し。信として信ずるに非ざる故に、慚は是れ信ぜずと言うは、體、各々異なることを顕すなり。信として心をして浄ならしむるに非ざるを以て慚は是れ信に非ず。慚として心をして善ならしむるに非ざるを以て信は是れ慚なること無し。諸の余の性と業とを廣略する同別は此の釈に准じて知れ。」) 

 又、『演秘』は問いを設けて釈しています。

 「論。慚等雖善非淨爲相者。問若慚非淨。如何前難云若令心淨慚等何別 答慚既稱善。何得非淨。然不似彼淨爲其相。與信不同。由斯難・答望義不同。故無有失。」(『演秘』第五本・二十一左。大正43・914b)

 (「論に、「慚等雖善非淨爲相者」(慚等は善なりと雖も浄を以て相と為すに非ずという)は、
 問う、若し慚は浄に非ずんば如何ぞ前に難じて若し心にして浄なら令むるならば慚等と何んぞ別なりと云うや。
 答う、慚をば既に善と称す、何んぞ浄に非ずということを得ん、然るに彼(信)が浄を其の相(自相)と為すに似ざれば信と不同なり。斯に由りて難と答と義に望めて同じからず。故に失有ること無し。」)

 羞恥とは、はじることなのですが、「内に羞恥を生ずるを名づけて慚と為す」といわれていますように、心心所をして善ならしめる働きをもつものなのです。自性善ではあるが、浄ではないということで、信と慚等とは混乱する過失はないという。

 

  

 


第三能変 ・善の心所 信について (12) 信の作用 (10)

2013-05-14 22:18:20 | 心の構造について

P1000823
 喩を挙げて説明される。(清珠を信の体に喩える)

 「水精の珠の能く濁水を清むるが如し」(『論』第六・二右)

 「論。如水精珠能清濁水 述曰。喩如水精珠能清濁水。濁水喩心等。清珠喩信體。以投珠故濁水便清。以有信故其心遂淨 若爾慚等例亦應然。體性淨故。斯有何別。」(『述記』第六本下・五左。大正43・434c)

 (「述して曰く。喩は水精珠の能く濁水を清くするが如し。濁水は心等に喩う。精珠を信の体に喩う。珠を投ずるを以ての故に濁水便ち清し。信有るを以ての故に其の心遂に浄し。若し爾らば慚等も例するに亦然るべし。体性は浄なるが故に斯れ何の別か有る。」)

 喩は

 信の体 - 水精の珠に喩え、

 濁水 - 他の心・心所に喩る。

 「若し爾らば慚等も例するに亦然るべし。体性は浄なるが故に斯れ何の別か有る。」という疑問が呈せられます。

 前段の『述記』の所論にも述べられていましたが、「此の信の体は澄清にして、よく心等を浄ならしむ、(信の心所以外の)余の心・心所法はただ相応善なり。これ等の十一は是れ自性善なり。」と。

 信の体は、余の心・心所を浄めるという働きをするのであれば、慚等の善の心所(自性善)も他の心王等(相応善)を浄めるという働きをするのではないのか、という問いに対して、次の科段で答えられます。

 

 

 

 


第三能変 ・善の心所 信について (11) 信の作用 (9)

2013-05-13 22:45:57 | 心の構造について

P1000821
 外、難じて言う(外人からの批判)

 「此れ猶未だ彼の心浄という言を了せず。若し浄即ち心なりといわば、応に心所に非ざる応し。若し心を浄なら令むといわば、慚等と何ぞ別なる。心と倶なる浄法ぞといわば、難と為ること亦然なり。」(『論』第六・初左)

 これだけでは猶未だ「心浄」という言葉を理解することはできない。もし浄がそのまま即ち心であるというのであれば、まさに心王であって、心所ではない。またもし、信は、「心を浄らかにする」というのであれば、信は慚等とどこが別(異なる)のであろうか、異なるはずはないであろう。また信は、心と倶である浄法であるといえば、心浄の場合と同じような問題(難と為る)がおこるであろう。

 「論。此猶未了至爲難亦然 述曰。三外難言。此由未了彼心淨言。若淨體即是心持業釋者。信應非心所。淨即心故 若淨體非即心令心淨者。心之淨故依依士釋第三轉聲。慚等何別。亦令心淨故。若心倶淨法。隣近釋者。淨與心倶故。爲難同令淨。亦慚等無別。」(『述記』第六本・四左。大正43・434b)

 (「述して曰く。三に外難じて言く、此れ未だ彼の心浄の言を了せざるに由るに、若し浄體即ち是れ心の持業釈にして、信は応に心所に非ざるべし。浄即ち心なるが故に。若し浄體は即ち心に非ず。心にして浄なら令むるは、心の浄なるが故に、依士釈に依る。第三転の聲なり。慚等と何ぞ別なるや。亦心にして浄なら令むるが故に。若し心と倶なる浄法にして隣近釈ならば、浄心と倶なるべし。難と為ること 浄なら令むるは亦慚等と別無きに同す。」)

 第四は、護法の会通。

 「此は性澄清にして、能く心等を浄ならしむ、心いい勝れたるを以ての故に心浄という名を立つ。」(『論』第六・二右)

 此(信)は、自性は澄清であって、能く心等(心王と心所)を浄らかにする。心王は勝れているものなので、その心王を浄らかにするという働きをもって、心浄という名を立てるのである。

 護法は、外人からの批判に答えて、心浄という意味は、心の体は澄清(澄浄)であって、心王・心所を浄らかにする働きを持つ、と会通していきます。

 護法の会通に二義が示されます。第二義は後の『論』の所論である、「又染法・・・・・・故浄為相」の解釈に『述記』は「此れ第二義なり」と述べていることから遡ってこの科段を第一義とします。

 「論。此性澄清至立心淨名 述曰。論主通曰。此信體澄清能淨心等。餘心・心所法但相應善。此等十一是自性善。彼相應故。體非善。非不善。由此信等倶故心等方善。故此淨信能淨心等。依依士釋。又慚等十法體性雖善。體非淨相。此淨爲相。故名爲信。唯信是能淨。餘皆所淨故。以心王是主。但言心淨。不言淨心所。文言略也。」(『述記』第六本下・五右。大正43・434b~c)

 (「述して曰く。論主通じて曰く。此の信は體澄清にして能く心等を浄ならしむ。余の心心所法は但だ相応善なり。此れ等の十一は是れ自性善なり。彼は相応なる故に。體善にも非ず、不善にも非ず。此の信等倶なるに由るが故に。心等方に善なり、故に此の浄信能く信等を浄ならしむるを以て依士釈なり。又慚等の十法は體性善なりと雖も、體浄相に非ず。此れは浄ならしむるを以て相と為す。故に名づけて信と為す。唯信のみ是れ能浄なり。余は皆所浄なるが故に、心王は是れ主たるを以て但だ心浄と言う。心所を浄なると言わず、文言略せり。」)

  •  能浄 - 浄める側
  •  所浄 - 浄められる側。

 信のみが能浄であって、それ以外、慚等の十法は体性は善ではあるが体は浄相ではない、どこまでも所浄であると会通しています。

 

 

 


第三能変 ・善の心所 信について (10) 信の作用 (8)

2013-05-11 22:59:39 | 心の構造について

 護法の答え

 「豈適(サキ)に言わずや、心を浄ならしむるを以て性と為す。」(『論』第六・初左)

「論。豈不適言心淨爲性 述曰。適者向也・纔也。」(『述記』第六本下・四左。大正43・434b)

 適 - 適(シャク)とは向(サキ)・纔(ハジメ)という意である。「シヤク」と読む場合には、「さき」の意味になり、「チャク」と読む場合には、「たまたま」「かなう」という意味になる。

 どうして、サキに述べなかったのか、今まさに述べるであろう。「心を浄らかにすることを以て自性とすると」。

 信の自相とは何か、について答えられます。

 尚、自相・自性・自体(本質的な働き)は同意として用いられています。信の本質的な働きは「心を浄らかにすること」なのですね。従って欲・勝解が信の自性ではないということなのです。

 「此れ猶未だ彼の心浄という言を了せず。若し浄即ち心なりといわば、応に心所に非ざる応し。若し心を浄なら令むといわば、慚等と何ぞ別なる。心と倶なる浄法ぞといわば、難と為ること亦然なり。」(『論』第六・初左)

 外人からの批判である。

 外人は更に護法の答えに対して批判を加える。「これだけの説明では、なお「心浄」という言を了解(理解)することは出来ない。もし、浄がそのまま心であるというのであれば、信はまさに(心王であって)心所ではないであろう。もし、信は心を浄らかにするというのであれば、信は慚等とどこが異なるのであろうか、異なるはずはない、同じものになるのではないのか。また、信は、心と倶である浄法であるというのであれば、心浄の場合と同じような問題が起こるであろう。

 ① 浄がそのまま心であるというのであれば、信はまさに(心王であって)心所ではないであろう。(「浄の体が即ち是れ心の持業釈にして、信は心所に非ざるべし。浄即ち心なるが故に。」)

 ② 信は心を浄らかにするというのであれば、信は慚等とどこが異なるのであろうか、異なるはずはない、同じものになるのではないのか。(「浄の体は即ち心に非ず、心を浄なら令むるならば、心の浄なるが故に依士釈に依る。」)

 ③ 信は、心と倶である浄法であるというのであれば、心浄の場合と同じような問題が起こるであろう。(信の意味が、心と倶である浄法であるという意味であるならば、①と同様の問題が起こると批判しています。)


第三能変 ・善の心所 信について (9) 信の作用 (7)

2013-05-09 22:19:29 | 心の構造について

 外の問いと、護法の答え

 信の自性について

 「忍と云うは、謂く勝解ぞ、此れ即ち信が因なり。楽欲と云うは、謂く欲は即ち是れ信が果なり、礭(確・まこと)に此の信を陳ぶれば、自相是れ何なるものぞ。」(『論』第六・初左)

 忍とは、つまり勝解のことである。これは即ち信の因である。楽欲とは、つまり欲の心所であり、これは信の果である。まことに、この信を述べるならば、その自相はいかなるものであろうか。

 信の本質的な作用が問われています。忍は認可であり、境を忍可するから勝解であり、これは信の因であり、楽欲(欲求)は欲の心所であり、境を楽希するので、信の果である。信の因と信の果を確かめて、何が信の自相であるのか、改めて問われています。

 「論。忍謂勝解至自相是何 述曰。此外問也。前言忍者即謂勝解。忍可境故。即是此信同時之因。下言樂・欲並是欲數。樂希境故。即是同時信所生果。此中何者是信自相。確實論其自相是何。確者實也。或忍・樂・欲。異時因果。理無遮也 下論主答彼。因解心淨。」(『述記』第六本下・四左。大正43・434b)

 (「述して曰く。此れ外の問いなり。前に忍と言うは、即ち謂く勝解なり。境を忍可するが故に。即ち是れ此の信の同時の因なり。下に楽欲と言うは、並びに是れ欲数なり。境を楽希するが故に。即ち是れ同時の信が所生の果なり。此の中何れが是れ信の自相なるや。礭実に其の自相を論ぜば、是れ何ぞ。礭とは実なり。或は忍楽欲するは異時の因果とするも、理として遮することなし。
 下は論主が彼に答う。因て心浄を解す。」)

 忍楽欲とは、忍と楽と欲。信の心所の三つの構成要素で、「心を浄ならしむるを性と為す」といわれ、信は「心を浄らかにすること」が信の自相であるとされます。 


第三能変 ・善の心所 信について (8) 信の作用 (6)

2013-05-08 21:58:15 | 心の構造について

 信の業用(作用)について

 「斯に由って彼を信ぜざる心を対治して、世出世の善を証修せむと愛楽す。」(『論』第六・初左)

 此れに由って(以上のことを以て)彼(実有・有徳・有能の実事)を信じない心を対治して、世間の善と、出世間の善を証し修そうと愛楽する、と述べられています。

論。由斯對治至世出世善 述曰。正治不信彼實事等。能起愛樂於無爲證。有爲善修。故是信業 自下欲顯忍・樂・欲三是信因果。及欲顯彼心淨之言是信自相寄問徴起。於中有四。一問。二答。三難。四通」(『述記』第六本・四右。大正43・434b) 

 (「述して曰く。正しく彼の実事等を信ぜざるを治して、能く無為を証し有為の善を修せんと愛楽することを起こす、故に是れ信の業なり。
 自下は忍楽欲の三は、是れ信の因果なりと云うことを顕さんと欲し、及び彼の心浄の言は、是れ信の自相と云うことを欲して問いに寄せて徴起す。中に於て四有り。一に問い、二に答え、三に難、四に通ず。」)

 信の業用とは、無為を証し、有為の善(出世間的な善、及び世間の善)を修めようとすることである。ここで言わんとすることは、たとえ世間的な善であれ、善を修するということは尊いことである、と述べているのです。恒審思量という末那識の存在が横たわろうと、末那識を転じていく働きは善を修するということであり、善を修しても雑毒の善であるという自覚が又末那識を転じ、智慧に転ずる機縁となるのですね。

 積極的な利他行が、利他は成り立たないという自覚をもって限りなく利他行が行じられていくものなのでしょう。そこに自利が満足していける世界が開かれてくるのではないでしょうか。


第三能変 ・善の心所 信について (7) 信の作用 (5)

2013-05-07 22:39:47 | 心の構造について

 第二は、有徳を信ずる信について説明される。

 「二には有徳を信ず、謂く、三法の真浄の徳の中に於て深く信楽するが故に。」(『論』第六・初左)

 二には有徳を信ずる、つまり三法(徳を有した仏・法・僧の三宝)の真浄の徳に対して深く信楽(仏・法・僧の三宝の徳を信じ楽う)するからである。有徳を信ずという信は、願うこと(欲)が信という意味になります。

 『述記』の説明から伺いますと、三宝には、同体・別体と有漏・無漏と住持・真行のあらゆる三宝はすべて有徳に摂められるのであると、即ち、「有徳を信ずる」とは、これらすべての三宝の殊勝な徳を信ずることである、と。

 真如は真浄である。その他は真浄の方便にして亦真浄と名づけるのであると説明されます。

 至心・信楽・欲生の信楽です、また楽は「愛楽仏法味」といわれる、楽というのは、欲の心所になります。「有徳を信ずれば、自ずと三宝に順じ、三宝を願うことが生起するという意味なのですね。

 「論。二信有徳至深信樂故 述曰。同體別體・有漏無漏・住持眞行所有三寶。皆是彼攝。如眞淨故。所餘是此眞淨方便亦名眞淨。」(『述記』第六本下・三左。大正43・434a)

 (「述して曰く。同體別體・有漏無漏・住持眞行とのあらゆる三宝は皆彼に摂す。如は真浄なるが故に、所余は是れ此の真浄の方便なるを以て亦真浄と名づく。」) 

 第三は、有能に対する信について説明される。

 「三には、有能を信ず、謂く、一切の世出世の善の於に、深く力有って能く得し能く成ぜむと信じて、希望(けもう)を起こすが故に。」(『論』第六・初右)

 三には有能を信ずる信である。つまり、世(世俗世間)の善と、出世間の善とに対し、深い力をもって、よく得ようとし、よく成し遂げんと信じて希望(欲の心所)を起こすからである。有能とは一切の善法を指します。世出世(自と他者)に対して一切の善法を成し遂げようと希望することを起こす、というのが有能を信ずる信である、といわれています。

 「論。三信有能至起希望故 述曰。謂於有漏無漏善法。信己及他。今能得後能成。無爲得有爲成。世善得出世成。起希望故。希望欲也。忍・樂・欲三如次配上。對法但言謂我有力能得能成。且據自成。此亦通他總致能得等言 上來已解信所依訖。隨文便故未解心淨。次釋彼業。」(『述記』第六下・三左。大正43・434a~b)

 (「述して曰く。謂く有漏無漏善法に於て、己と及び他との、今能く得し、後に能く成じ、無為を得し、有為を成じ、世善を得し、出世は成ぜんと希望を起こすが故に。希望とは欲なり。忍楽欲の三は次の如く上に配す。対法には、但だ謂く我力有って能く得し能く成ぜんと言う。且く自成に拠る。此は亦他に通じて総じて能得等の言を致せり。
 上来已に信の所依を解し訖る。文便に随うが故に、未だ心浄を解せず。次に彼の業を釈す。」)


第三能変 ・善の心所 信について (6) 信の作用 (4)

2013-05-06 10:19:56 | 心の構造について

P1000812
 信を開いて、「実・徳・能」を個別に説明される。

 「然るに信の差別なること略して三種有り。」(『論』第六・初右)

 しかも、信について区別がある。略して三種である。

 「論。然信差別略有三種 述曰。下廣前難有三。初解依處。次解業用。後解自性。初中又二。先標。後釋。此初也。」(『述記』第六本上・三右。大正43・434a) 

 (「述して曰く。下は前難を廣す。私云異本作段 三有り。初に依處を解し、次に業用を解し、後に自性を解す。初の中に又二あり。先に標、後に釈なり。此は初なり。)

 三段に分けられて説明されますが、信の三種は依処の別であって、別別の心所ではないということです。先ず第一段が、信の依処について説明され、第二段は、信の業用について説明され、第三段は、信の自性について説明されます。初めに信に三種類の区別があることが標されます。そしてそれぞれ個別に詳細に解釈が施されます。

 第一は、実有を信ずる信について説明されます。

 「一に実有を信ずる。謂く諸法の実の事と理との中に於て深く信忍するが故に。」(『論』第六・初右)

 初めに、実有を信ずる。つまり、諸法の実の事と理とに対して深く信忍するからである。

 「諸法の実」とは、四諦の体、実有であり、実有の体に忍可の信を起こすからであるといわれています。理は無為・事は有為の諸法ですから、有為・無為の一切法のありのままのことを実と表現し、信忍の忍は認と同じで、認可するという勝解の心所であるわけです。諸法の理と事に於て分別を加えないで、認可することが信であり、実有の信、忍可の信といわれているのです。それがそのまま信そのものという、心を浄ならしめるという果となって生起するという構造になっているのですね。実有を信ずるということが因となり、心浄という果を引き起こしてくるのではないでしょうか。

 「論。一信實有至深信忍故 述曰。謂於一切法若事若理信忍皆是。對法云。於實有體起忍可信。古師依此謂此四諦體實有也。今此中言。若信虚空此是何等。體非實故。亦非諦故。爲信虚空即此攝故。但可總言若理若事。空雖體無。有空理故。」(『述記』第六本下・三右。大正43・434a)

 (「述して曰く。謂く、一切法の若しは事、若しは理に於て信忍する皆是れなり。対法に云く、実有の體に於て忍可の信を起こすと云へり。古師は此れに依る。謂く此は四諦の體実有なり。今此の中の言く、若しは虚空を信ずば、此は是れ何等ぞや。體実に非ざるが故に、亦、諦に非ざるが故に。虚空を信ずるは即ち此に摂せんが為の故に。但だ総じて若しは理、若しは事と言うべし。空は體無と雖も空の理有るが故に。」) 

 先ず、実有を信ずるという段階ですね。欲(善法欲)が生起する前段階になるといわれています。それは諸法の理と事(諦実)に於て忍可の信を起こすという因が明らかにされているのですね。