唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 信について (14) 信の作用 (12)

2013-05-16 22:50:27 | 心の構造について

 第二義(護法会通の第二義)

 「又諸の染法は各別に相有り。唯だ不信のみ有って自相渾濁(じそうこんじょく)し、復能く余の心心所をも渾濁す、極めて穢物(えもつ)の、自も穢れ他をも穢すが如し。信は正しく彼に翻ぜり、故に浄を以て相と為す。」(『論』第六・二右)

 また諸々の染法には各別に自相がある。その中でただ不信のみ自相が濁っており、不信はまたよく他の心心所をも濁らせるのである。それは極めて穢い物が、自らも穢れ、他をも穢れさすようなものである。それに対し、信は、不信の対極にある心所である。その為に心を浄らかにすることを以て自相とする。

 護法は、信の心所の本質的な働きは、自らも浄く、他の心心所をも浄らかにする心所である、と会通しています。不信とは染法であり、貪愛等の煩悩であるという。不信は「心心所を穢すことを以て性とし、浄信を妨害し、懈怠の依り所となることを以て業とする」心所なのですね。懈怠は不信によって生じ、不信とは、具体的には貪愛等の煩悩であり、惑・業・苦という循環的な苦悩の因になるのですね。

 「論。又諸染法至故淨爲相 述曰。此第二義。所餘一切染法等中。各別有相。如貪・愛等。染心所内唯有不信。自相渾濁。渾濁餘心等令成染汚。如極穢物自穢穢他。亦如泥鰍動泥濁水。不信亦爾。唯一別相渾穢染汚。得總染也。信正翻彼不信渾濁。故以淨爲信之相也。下破有二。如文可知也。」)(『述記』第六本下・六右。大正43・434c)

 (「述して曰く。此れ第二義なり。所余の一切の染法等の中に各別に相有り。貪愛等の如し。染の心所の内に唯だ不信有り。自相渾濁にして、余の心等を渾濁して染汚を成ぜ令む。極穢の物の自を穢し、他をも穢するが如し。亦泥鰍(どじょう)の泥を動かし水を濁すが如し。不信も亦爾なり。唯一の別相のみ渾穢染汚して総じて染なることを得るなり。信は正しく彼の不信の渾濁に翻ずるが故に。浄を以て信の相と為すなり。下は破なり、二あり、文の如く知るべきなり。」)