唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 信について (13) 信の作用 (11)

2013-05-15 22:45:06 | 心の構造について

 信以外の慚等の十の善の心所は、体相は善ではあるが、浄を以て相とは為さない、即ち信のみが心心所を浄ならしめるのである、ということを明らかにする。

 「慚等は善なりと雖も、浄を以て相と為るに非ず、此は浄ならしむるを以て相と為す、彼に濫ずる失無し。」(『論』第六・二右)

 信以外の慚等の善の心所は、善ではあるとはいえ、浄をもって自相(自性・体性・体相)とするのではない。此れ(信)は心を浄らかにすることを以て自相とする、その為に慚等の十の善の心所と信が混乱する過失は無いのである。

 「論。慚等雖善至無濫彼失 述曰。其餘慚等體性。雖善令心等善。不以淨爲相。但以修善・羞恥等爲相。此信以淨爲相。無濫慚等之失。非慚慚故。信是無慚。非信信故。慚是不信。今此淨者。信體之能。」(『述記』第六本下・六右。大正43・434c)

 (「述して曰く。其の余の慚等は體性善なりと雖も、心等をして善なら令む、浄を以て相とは為さず。 但だ善を修して羞恥(しゅうち)する等を以て相と為す。此の信は浄ならしむるを以て相と為す。慚等に濫ずるの失無し。慚にして慚ずる故に信は是れ慚なること無きに非ず。信にして信ずるが故に慚は是れ信ならざるに非ず。今は此の浄とは信の體の能なり。」)

 『了義燈』はこの『述記』の所論を釈して、

「疏言非慚慚故信是無慚非信信故慚是不信者。顯體各異。非以信令心淨。慚是不信。非以慚令心善。信是無慚。諸餘廣略性・業同別准此釋知。」(『了義燈』第五末・初左。大正43・754a)

 (「疏に、慚として慚するに非ざる故に、信は是れ慚なること無し。信として信ずるに非ざる故に、慚は是れ信ぜずと言うは、體、各々異なることを顕すなり。信として心をして浄ならしむるに非ざるを以て慚は是れ信に非ず。慚として心をして善ならしむるに非ざるを以て信は是れ慚なること無し。諸の余の性と業とを廣略する同別は此の釈に准じて知れ。」) 

 又、『演秘』は問いを設けて釈しています。

 「論。慚等雖善非淨爲相者。問若慚非淨。如何前難云若令心淨慚等何別 答慚既稱善。何得非淨。然不似彼淨爲其相。與信不同。由斯難・答望義不同。故無有失。」(『演秘』第五本・二十一左。大正43・914b)

 (「論に、「慚等雖善非淨爲相者」(慚等は善なりと雖も浄を以て相と為すに非ずという)は、
 問う、若し慚は浄に非ずんば如何ぞ前に難じて若し心にして浄なら令むるならば慚等と何んぞ別なりと云うや。
 答う、慚をば既に善と称す、何んぞ浄に非ずということを得ん、然るに彼(信)が浄を其の相(自相)と為すに似ざれば信と不同なり。斯に由りて難と答と義に望めて同じからず。故に失有ること無し。」)

 羞恥とは、はじることなのですが、「内に羞恥を生ずるを名づけて慚と為す」といわれていますように、心心所をして善ならしめる働きをもつものなのです。自性善ではあるが、浄ではないということで、信と慚等とは混乱する過失はないという。