唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 信について (12) 信の作用 (10)

2013-05-14 22:18:20 | 心の構造について

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 喩を挙げて説明される。(清珠を信の体に喩える)

 「水精の珠の能く濁水を清むるが如し」(『論』第六・二右)

 「論。如水精珠能清濁水 述曰。喩如水精珠能清濁水。濁水喩心等。清珠喩信體。以投珠故濁水便清。以有信故其心遂淨 若爾慚等例亦應然。體性淨故。斯有何別。」(『述記』第六本下・五左。大正43・434c)

 (「述して曰く。喩は水精珠の能く濁水を清くするが如し。濁水は心等に喩う。精珠を信の体に喩う。珠を投ずるを以ての故に濁水便ち清し。信有るを以ての故に其の心遂に浄し。若し爾らば慚等も例するに亦然るべし。体性は浄なるが故に斯れ何の別か有る。」)

 喩は

 信の体 - 水精の珠に喩え、

 濁水 - 他の心・心所に喩る。

 「若し爾らば慚等も例するに亦然るべし。体性は浄なるが故に斯れ何の別か有る。」という疑問が呈せられます。

 前段の『述記』の所論にも述べられていましたが、「此の信の体は澄清にして、よく心等を浄ならしむ、(信の心所以外の)余の心・心所法はただ相応善なり。これ等の十一は是れ自性善なり。」と。

 信の体は、余の心・心所を浄めるという働きをするのであれば、慚等の善の心所(自性善)も他の心王等(相応善)を浄めるという働きをするのではないのか、という問いに対して、次の科段で答えられます。