「然るに信の差別なること略して三種有り。」(『論』第六・初右)
しかも、信について区別がある。略して三種である。
「論。然信差別略有三種 述曰。下廣前難有三。初解依處。次解業用。後解自性。初中又二。先標。後釋。此初也。」(『述記』第六本上・三右。大正43・434a)
(「述して曰く。下は前難を廣す。私云異本作段 三有り。初に依處を解し、次に業用を解し、後に自性を解す。初の中に又二あり。先に標、後に釈なり。此は初なり。)
三段に分けられて説明されますが、信の三種は依処の別であって、別別の心所ではないということです。先ず第一段が、信の依処について説明され、第二段は、信の業用について説明され、第三段は、信の自性について説明されます。初めに信に三種類の区別があることが標されます。そしてそれぞれ個別に詳細に解釈が施されます。
第一は、実有を信ずる信について説明されます。
「一に実有を信ずる。謂く諸法の実の事と理との中に於て深く信忍するが故に。」(『論』第六・初右)
初めに、実有を信ずる。つまり、諸法の実の事と理とに対して深く信忍するからである。
「諸法の実」とは、四諦の体、実有であり、実有の体に忍可の信を起こすからであるといわれています。理は無為・事は有為の諸法ですから、有為・無為の一切法のありのままのことを実と表現し、信忍の忍は認と同じで、認可するという勝解の心所であるわけです。諸法の理と事に於て分別を加えないで、認可することが信であり、実有の信、忍可の信といわれているのです。それがそのまま信そのものという、心を浄ならしめるという果となって生起するという構造になっているのですね。実有を信ずるということが因となり、心浄という果を引き起こしてくるのではないでしょうか。
「論。一信實有至深信忍故 述曰。謂於一切法若事若理信忍皆是。對法云。於實有體起忍可信。古師依此謂此四諦體實有也。今此中言。若信虚空此是何等。體非實故。亦非諦故。爲信虚空即此攝故。但可總言若理若事。空雖體無。有空理故。」(『述記』第六本下・三右。大正43・434a)
(「述して曰く。謂く、一切法の若しは事、若しは理に於て信忍する皆是れなり。対法に云く、実有の體に於て忍可の信を起こすと云へり。古師は此れに依る。謂く此は四諦の體実有なり。今此の中の言く、若しは虚空を信ずば、此は是れ何等ぞや。體実に非ざるが故に、亦、諦に非ざるが故に。虚空を信ずるは即ち此に摂せんが為の故に。但だ総じて若しは理、若しは事と言うべし。空は體無と雖も空の理有るが故に。」)
先ず、実有を信ずるという段階ですね。欲(善法欲)が生起する前段階になるといわれています。それは諸法の理と事(諦実)に於て忍可の信を起こすという因が明らかにされているのですね。