唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 信について (2) 実・徳・能

2013-05-01 22:56:59 | 心の構造について

  「論。云何爲信至心淨爲性 述曰。次下第二出諸善體分爲八段。合慚・愧爲一。三善根爲一故。別解信中初申正義。下破外執 申正義中。初略。後廣。略中體・業。此即性也。顯揚・對法・五蘊論等雖文同此。然有實等不別分別。唯此説之 實・徳・能三是信依處。是境第七 深忍・樂欲是信因果 心淨爲性。正顯自體」(『述記』第六本下・二右。大正43・433c~434a)

 (「述して曰く。次下は第二に諸の善体を出す。分けて八段と為す。慚・愧を合して一と為り、三善根を一と為すが故に。別して信を解する中に、初に正義を申ぶ。下は外執を破す。正義を申する中に初は略、後は広なり。略の中、体と業とあり。此は即ち性なり。
 『顕揚』と『対法』と五蘊論等、文は此に同なりと雖も、然も有実等を別に分別せず。唯だ此のみを之に説く。実・徳・能の三は是れ信の依処なり。是れ境の第七なり。深忍楽欲(深く忍し楽し欲す)とは是れ信の因果なり。心浄為性(心をして浄ならしむるを性と為す)とは、正しく自体を顕す。」)

 善の心所の第一が述べられます。信の心所についての所論が、『顕揚論』巻第一・『対法論』(『大乗阿毘達磨雑集論』)巻第一・『倶舎論』巻第四等に説かれている通りである、と。
 信の心所の定義は、「心をして浄ならしむるを性と為す」という心の働きに他なりません。いうなれば、「心を浄らかにする心の働き」といっていいでしょう。従って、「信」と云った場合には、必ず「清浄ならしめる」という働きをもったものということができます、(対象物として)信ずるという意味合いでの信は仏教ではいいません。「心浄為性」が自体である、と。信=心浄為性なのですね。ここが大変大事なところです。一歩間違えば、自我意識のままに、対象として何かを信じ、信じたことを利用して果得しようとする功利性が伺えます。これは信じるという因と、信じたということによってもたらされた果であって、信そのものではないのです。

 「実・徳・能の三は是れ信の依処なり」、そして「深く忍し楽し欲す」とは是れ信の因果なり」と述べられていますことは、この一文は、信そのものを言い表しているのではないということなのです。信の因果を顕しています。実(実有)・徳(有徳)・能(有能)に対し、深く、「忍し」、「楽い」、「欲する」という。「対し」ですから、対象としてですね。対象として信ずる、信そのものではない、ということです。

 実有を忍(対象を認可すること。認識確定すること)することは、信の生ずる因である。これが因となって、有徳を楽い、有能を欲するという(信の)果が生起してくるのです。このことを『述記』には「信の依処」である、信の所依、信が起こるための依り所、及び所縁の境(認識対象)となっていることを示しています、それが実有であり、有徳であり、有能であるということです。実有が因となるということは、実有が因となって信そのものである、「心を浄らかにすること」を起こしてくるのです。そして信そのものを因として、有徳を楽し、有能を欲するという果が生起してくるという構造になります。これは信が生起するということは、心を浄らかにすることですから、実有を忍(真実を願う)することが必須条件となります。それ以外の功利的な罪福信は信とは言えないということになります。

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