唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 慚と愧の心所について (2)

2013-05-28 22:26:26 | 心の構造について

 「論。云何爲慚至止息惡行爲業 述曰。下第二段慚・愧合解。於中有二。初別解。後總解 依自法力者。顯揚云。依自増上及法増上羞恥過惡。即是二縁。今此乃顯慚之別相。即是崇重賢・善二法。謂於有賢徳者若凡若聖。而生崇敬。於一切有漏・無漏善法。而生崇重。此是慚之別相。至下當知。對治無慚其義可知。與止息惡行爲所依。由此故惡不轉。顯揚皆例於信起五業。初皆所治別業。即皆同此。」(『述記』第六本下・八右。大正43・435a) 

 「論云何爲慚至止息惡行爲業」(「述して曰く。下は第二段、慚と愧とを合して解す。中に於て二有り、初に別して解し、後に総じて解す。自と法との力に依るとは、顕揚に云く、自の増上と及び法の増上とに依って過悪を羞恥すと云えり。即ち是れ二縁なり。今此れ乃ち慚の別相を顕す。即ち是れ賢と善との二法を崇重す。謂く賢徳有る者(ひと)の、若しは凡、若しは聖に於ては、崇敬することを生じ、一切の有漏無漏の善法に於て崇重することを生ず。此は是れ慚の別相なり、下に至ってまさに知るべし。無慚を対治すとは、其の義知るべし。悪行を止息するが與に所依と為る。此に由るが故に悪転ぜず。顕揚には皆信に例して五業を起こすと云えり。初は皆所治の別業なり。即ち皆此に同なり。」)

 『述記』の所論によりますと、「慚」の別相とは、「賢と善との二法を崇重す。謂く賢徳有る者(ひと)の、若しは凡、若しは聖に於ては、崇敬することを生じ、一切の有漏無漏の善法に於て崇重することを生ず」と述べています。

 「賢と善」を、「慚」の別相とし、「恥じる」という働きを慚と愧の通相とするという、前日に述べた通りです。

 そして、何を業とするのかといいますと、「悪行を止息させる」という意味をもつということになります。「此に由るが故に悪転ぜず」と、「慚」による為にということになりますが、「悪行を止息するが與に所依と為る」ことに依って悪行は働かない、悪行が働いていたとしても、悪行を止息させるのが「慚」の心所であると述べています。

 能対治が「慚」、所対治が「無慚」ということになります。この所は、『顕揚論』巻第一(大正31・481b)に「皆信に例して五業を起こす」と説かれていると『述記』は述べています。

「慚者謂依自増上及法増上羞恥過惡爲體。斷無慚障爲業。如前乃至増長慚爲業。如經説慚於所慚。」

 「慚とは、謂く、自の増上と及び法の増上とに依って過悪を羞恥するを体と為す。
 ① 無慚の障礙を断つを業とする。
 ② よく菩提を得、資糧を円満するを業と為す。
 ③ 自他を利益するを業と為す。
 ④ よく善道に趣かせるを業と為す。
 ⑤ 慚を増長させることを業と為す。

 この「慚」の心所は、親鸞聖人の御了解と共に、真宗におけるボランテイアを考える上で大変示唆に富んだ所論であると思います。