唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 信について (5) 信の作用 (3)

2013-05-04 22:21:41 | 心の構造について

</object>


YouTube: 城北花菖蒲園  2012

 善の心所についての安田先生の了解、 『安田理深選集』第三巻p328~331より抜粋

 「そこで最初に信を挙げている。信から始まっているのは意味の深いことである。これは「実と徳と能とにおいて、深く忍じ楽じ欲して心浄なるを性となす」と定義される。これが信の本質的な作用である。「不信を対治する」のが業である。信そのものの作用は性である。その作用であることによって他に対しての用きは、不信を対治するといわれている。これは実を忍じ徳を楽じ能を欲する。「深く」は全部にかかる。これを丁寧に解釈して実を深く信忍し、徳を深く信楽し、能く深く信じて欲を起こすといってある。これは信というものがとらえにくいものだからである。我々がただ信仰とか信念とかいうが、その本質は何か。広く宗教一般においても真宗においても、これが大きな問題である。
 三つの相に分けて信を明らかにしてある。実徳能は信の対象である。何を信ずるかというと、三つの対象に即して信というものが三つの用きとして述べられてある。実というものを対象として信じているのは忍ずるという形である。徳を信ずるのは楽ずる形。そして能を信ずる結果必ず欲が起こってくるといわれている。信忍、信楽、信欲するものが信であり、信それ自体をあらわす言葉が心浄である。そういう信が三つの対象の相にあらわされている。」

 『法相二巻鈔』より

 「次ニ信ノ心所ト云ハ。世ノ常ニ信ヲ起ト云ハ是也。貴ク目出度キ事ト深ク忍ビ願ヒテ澄清ノ心也」(大正71・110c)

 信は、信忍、信楽、信欲との三つより成り立っている、忍は勝解の働きと同様である。信楽の楽と信欲の欲とは、別境の欲と同じ作用をもつといわれている。従って信は勝解と欲とによって成り立っているのである。これは相であって、本質は澄浄といわれるような、「澄ミ清キ心」である。澄んだ心であり、「水清の珠の能く濁水を清むるが如し」と、心全体を清浄にしていく力があるという。非常に能動的な働きをもつものである、ということですね。能対治・所対治という働きをもちます。信は不信を対治する。信は能対治・不信は所対治です。

 「こういう三つのことが完備して、信心といえる。信の対象には自己というものが入るのである。自信という意義がなければならぬ。仏を信ずることによって仏となりうる自己を信ずるのである。この三義を含んで信というものの形態を全うするのである。経典は『観経』では深心、『大経』には至心信楽欲生という。ああいうのは心理的必然である。至心に信楽して欲生するのは心理的必然をもって移っていくのである。安心の心理を明らかにしたものである。必得往生という一つの確信の心理を明らかにしたものである。三心釈は信心の記述でなく、信心を成り立たしたものである。・・・・・・信そのものとは何か。それが浄というものである。浄は濁っていないということである。信が、欲か勝解に誤解されるが、信そのものは心に濁りのないことである。そこに私とかいうものが無い。つまり自分を自分で欺かないことである。自分が自分に偽りが無い。そいうものである。
 これが信の面目である。諸法の真理に触れて初めて自己が透明になるのである。「和して同ぜず」は信にしていえることである。自分が自分に嘘をつかぬことである。たいていは信の因を信と間違えたり、信の果を信と間違えたりしているのである。」(『安田理深選集』第三巻p330~331)


第三能変 ・善の心所 信について (4) 信の作用 (2)

2013-05-04 15:33:04 | 心の構造について

P1000789 「論。樂善爲業者。按顯揚第一。信業有五云。斷不信障爲業。能得菩提資糧圓滿爲業。利益自他爲業。能趣善道爲業。増長淨信爲業。後之四種此樂善攝。爲樂於善方起四故 疏。即是論中堅固信者。即攝大乘第七頌云。清淨増上力堅固心勝進。名菩薩初修無數三大劫。又按瑜伽五十七云。問世尊依何根處説如是言。於如來所淨信深固根生建立。一切世間若諸沙門。若婆羅門。若天魔・梵。無有如法能引者。答依信根説。此顯其信於聞・思・修勝堅固義」(『演秘』第五本・十九。大正43・913c)

 (「論に善は楽うを以て業と為す」とは、顕揚の第一(大正31・481b)を按ずるに信の業に五有り。不信の障を断ずるを業と為す。能く菩提の資糧円満するを得るを業と為す。自他を利益するを業と為す。能く善道に趣くを業と為す。浄信を増長するを業と為すと云へり。後の四種は此の楽善に摂む。善を楽うが為に方に四を起こすが故に。
 疏に、「即ち是れ論中の堅固の信なり」とは、即ち摂大乗の頌(『無性摂論』巻第七。大正31・425c)に、清浄と増上との力にて堅固心にして昇進(『演秘』は勝進ですが、『摂論』は昇進になっています。)するを、菩薩の初修の無数の三大劫と名づくと云へり。又瑜伽の五十七(『瑜伽論』巻第五十七。大正30・617b)を按ずるに。
 問う、世尊何の根拠に依りて、是の如きの言を説きたまえるや、如来の所において浄信深固にして根生じて建立すれば一切世間の若しは諸の沙門、若しは婆羅門、若しは天魔と梵の如法に能く引脱(引奪を引脱に改める)する者有ること無しと。
 答う、信根に依りて説きたまえり。此は其の信の聞思修に於て、勝解(勝を勝解に改める)の堅固なる義を顕すと云へり。」)

信という内実は、「不信を対治する」ということが総、「善を楽う」ことが、総を開いて別してということになります。不信を対治するということの内容が、『顕揚論』に説かれている第二から第四の説明にあたります。後に喩として紹介されますが、

       「水清の珠の能く濁水を清むるが如し」

と。