唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 慚と愧の心所について (4)

2013-05-31 23:33:23 | 心の構造について

 「論。謂依自法至息諸惡行 述曰。謂於自身生自尊愛。増上於法生貴重。増上二種力故。崇賢重善。羞恥過惡。謂作是意言。我如是身乃作諸惡。彼法甚好次依用之。即雖依周・孔之書皆名貴法。世禮儀故。然以刑防惡如國法律。即是後文世間愧攝。」(『述記』第六本下・八左。大正43・435a~b)

 (「述して曰く。謂く自身に於て自を尊愛することを生ず。増上と法とに於て貴重することを生ず。増上との二種の力の故に、賢を崇し、善を重じ、過悪を羞恥す。謂く是の意を作して言く、我是の如きの身を以て乃ち諸悪を作んとや。彼の法甚だ好し。須らく之を依用す、即ち周孔の書に依ると雖も、皆法を尊ぶと名づく、世の礼儀なるが故に。然るに刑を以て悪を防ぐ、国の法律の如きは、即ち是れ後文の世間の愧に攝む。」)

 前回も述べていますが、慚の心所は、「自と法とを尊し貴する増上に依って」と説かれています。これが因になります。自と法との二種が述べられていますが、この自と法は、法に依って明らかになった自(わが身。自身)と、自が法を証明しているのですね。自と法が離れてあるものではないということです。法に依って明らかになった自に於て自身を尊し愛することができるということなのです。そのことが法を貴び重んじることになるのです。増上は自と法にかかります。自と法との増上縁に依って、「賢と善とを崇重する」という果が生じてくるのです、果が因となって過悪を羞恥するという慚(愧)心を生みだしてくるのですね。この恥じる心が、恥じることのない心を対治し、諸々の悪行を止息させ、人間として生まれてきた意味を回復させてくれるのですね。「自と法との増上に依って」「恥じる心」が生じてくるということが大事ですね。自己中心的なものではないということです。自己中心的思考における恥じる心は、恥じる心をも利用します。慢心なのです。

 「君子は周して比せず」(『論語』・君子は誠実で親密であり、一部の人だけにおもねらない)という、孔子等の思想は、世の礼儀であり、法を尊ぶという意味では、大変に重要な教えというものである、仁・義・礼・智・信という儒教の教えも大切な世の規範となるものであるということを述べています。しかし悪を防ごうとする抑止力となる刑法は世間的なものに他ならず、愧に摂めるべきものである、という。

 (参考)

 「仁義礼智信」とは儒教でいう五常の徳(人間が守らなければいけない5つのルール)といいます。
 「仁」 思いやりの心 憐れむ心がやがて「仁」になる
 「義」 世のためになる人としての道 不善を恥じ憎む心がやがて「義」になる
 「礼」 礼儀正しいことはもちろんで謙虚、感謝の心 へりくだり人に譲る心がやがて「礼」になる
 「智」 正邪を正しく判断すること 善いこと悪いことを論じる心がやがて「智」になる
この「仁義礼智」を体の四肢になぞらえて、四端(したん)といいます。
 これに
 「信」 嘘をつかないこと 信念・信条
を加えて五常の徳と説かれています。

 


「無慚無愧のこの身にて」

2013-05-31 00:14:04 | 生きることの意味

 「第六意識の中で善の心所は語られるのか」

 私たちの心は前五識(眼・耳・鼻・舌・身識)と第六識・第七<wbr></wbr>識・第八識の八つの心をもっているのですが、信・慚・愧・念・定<wbr></wbr>・慧という善の心所はどこに働くのかと云う問題があります。第七<wbr></wbr>識・第八識は位に随って有る場合とない場合が有るということです<wbr></wbr>。位というのは有漏位(煩悩の有る位)・無漏位(煩悩の穢れがな<wbr></wbr>い位)のことです。根本煩悩は我執ですから、ここは我執が有る場<wbr></wbr>合は善の心所は働かないというのです。そして無我の境地になりま<wbr></wbr>すと十一の心所はすべて働くといっています。第七識も第八識にも<wbr></wbr>我執が働いているときは善の心所は働かないといっているのです。<wbr></wbr>働いているのは善でも悪でもない無記の心は働いているというので<wbr></wbr>す。命は善でも悪でもなく無記(善とも悪ともきめることができな<wbr></wbr>いこと)なのです。ですから我執も無記になります。しかし我執そ<wbr></wbr>のものは無記なのですが、我執が起こって...いる時は煩悩が働いていますから、善の心は起きないのです。「法<wbr></wbr>」を立場とする無漏位の境地に立ちますと善の心所はすべて働くこ<wbr></wbr>とになるのですね。そして意識ですね。第六識が働くときは十一の<wbr></wbr>心所すべてが働くといわれているのです。こうして仏教の勉強をし<wbr></wbr>、また聞法をするということには善の心所が働いていることになり<wbr></wbr>ますね。聞法をしようという意思決定が私の上に善の心が自ずとし<wbr></wbr>て働いてくるのですね。前五識はどうかといいますと、護法唯識で<wbr></wbr>は共に働くといわれるのです。善の心所すべてが働き動くというわ<wbr></wbr>けです。これはどのようなことであるのかといいますと、前五識そ<wbr></wbr>のものは感覚作用ですが、第六識の影響下にあるわけです、第六識<wbr></wbr>に支えられて前五識は働いているという関係になります。「成所作<wbr></wbr>智(じょうしょさち)」とありますが、この智慧は前五識が転じた<wbr></wbr>ものなのです。(前五識が転じて仏智として顕れたものー仏の四智<wbr></wbr>の一つ)表層の意識から深層の意識へと自分を見つめる眼差しが深<wbr></wbr>まっていくのですが、深層の意識では善の心所は働かないというの<wbr></wbr>です。これは何故かといいますと、命の根源は善悪を超えた平等の<wbr></wbr>世界を戴いているのですね。しかし第六意識は善悪の判断を常にし<wbr></wbr>ているわけです。ですから第六識ですね。ここに心所として善が置<wbr></wbr>かれているのですね。この表層の意識なのですが、これは第八阿頼<wbr></wbr>耶識を根本識として影響を受けているのです。「五識は縁に随って<wbr></wbr>現じ」・「意識は常に現起す」といわれています。深層の阿頼耶識<wbr></wbr>を因とし、さまざまな縁を補助因として五識は表面に現れてくるこ<wbr></wbr>とになるのです。これを転識といいます。意識は自ずから分別を起<wbr></wbr>こすことが出来、「内外門に転じ」といわれ、自己の内と外を対象<wbr></wbr>とすることが出来るので有るといわれているのです。ですから「多<wbr></wbr>くの縁を籍りず」と意識が生ずるためにには多くの縁を必要としな<wbr></wbr>いといわれているのです。阿頼耶識を根本原因とはするのですが、<wbr></wbr>意識の働きは私の精神生活にとっては大変重要な役割を持っている<wbr></wbr>のです。表層から深層へという流れは第六識がキーポイントになり<wbr></wbr>、第七識で我執として色づけされ、第八識に種子として薫習される<wbr></wbr>のです。聞法するという行為も意識から生まれてくるということが<wbr></wbr>大変意義のあることでしょう。

 「無慚無愧のこの身にて」

 善の心所である慚・愧について学ばせて<wbr></wbr>いただいていますが、今、思う所を少し述べてみまう。私は<wbr></wbr>いつも「支えられてある命」の恩徳を忘れ、自分が生きていると思<wbr></wbr>っています。誰にも迷惑をかけず、私は私の力で生きているのだと<wbr></wbr>自負しているのです。自分の力で何でもできると自負しているのな<wbr></wbr>ら、満足をして生活をしているのかといえば愚痴や不満といった、<wbr></wbr>やるせなさを伴った生活をしているのです。これは「支えられてあ<wbr></wbr>る命」に反逆している相であると思うのです。「そうではなかった<wbr></wbr>んだ」という反逆者の自覚が慚愧を生み出してきます。この慚愧が<wbr></wbr>非常に大切な心のあり方であると教えられています。「慚」という<wbr></wbr>のは「自と法との力に依って賢・善を崇重する」「自」とは自身、<wbr></wbr>「法」とは仏の教え。私たちの中にある善を求める心と仏の教えに<wbr></wbr>依って恥を知るということです。「慚」も「愧」も恥じるこ...と、という意味です。「愧」というのは「世間の力に依って暴悪を<wbr></wbr>軽拒する」「世間の力」とは世間体です。世間の人は自分の事をど<wbr></wbr>のように見ているのか、よく見せたいという力に依るわけです。自<wbr></wbr>己の問題と、世間体とに依って悪行を止息する、悪いことをしない<wbr></wbr>、そして乱暴な行いや、軽はずみなことはしないということになる<wbr></wbr>わけです。自己の内面に依って「慚」、自己の外面に依って「愧」<wbr></wbr>、ともに恥じる心です。これが人として人を継続していく力になる<wbr></wbr>わけです。その逆が無慚無愧で「人と為せず」といわれる所以なの<wbr></wbr>です。 「大王、諸仏世尊常にこの言を説きたまわく、「二つの白<wbr></wbr>法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。「慙」は<wbr></wbr>自ら罪を作らず、「愧」は他を教えて作さしめず。「慙」は内に自<wbr></wbr>ら羞恥す、「愧」は発露して人に向かう。「慙」は人に羞ず、「愧<wbr></wbr>」は天に羞ず。これを「慙愧」と名づく。「無慙愧」は名づけて「<wbr></wbr>人」とせず、名づけて「畜生」とす。慙愧あるがゆえに、すなわち<wbr></wbr>よく父母・師長を恭敬す。慙愧あるゆえに、父母・兄弟・姉妹ある<wbr></wbr>ことを説く。善いかな大王、具に慙愧あり、と。乃至 王の言うと<wbr></wbr>ころのごとし。(『涅槃経』・真聖P257)
  心の働きは不思議ですね。瞬時に変化しますから。どうしてでしょ<wbr></wbr>うか。これは考える以前の問題でしょうか。僕なんかは、いつも起<wbr></wbr>こってしまった事を考えていますから、何とか理屈をつけて解釈し<wbr></wbr>ています。あとから、あとから解釈するものですから、解釈するこ<wbr></wbr>とに忙しいのです。それが人生と思っていますから、いつも暗いの<wbr></wbr>ですね。実際は自分で思い考えるより先に自我意識は反応している<wbr></wbr>んですけどね。それに素直になればいいのですが、素直に成れない<wbr></wbr>自分がいるのですよ。例えば「ほめられる」と「わかってくれてい<wbr></wbr>る」とのぼせ上がるますし、反対に「けなされたり、怒られたり」<wbr></wbr>しますと、瞬時に頭から血の気がひいて落ち込みます。我執が乱高<wbr></wbr>下するんです。我執って面白いと思うのはへこたらないですよ。く<wbr></wbr>じけません。立ち上がるのです。怒られても、けなされても上を見<wbr></wbr>つめています。慢心と教えられていますが、「ほめられる」と有頂<wbr></wbr>天、「けなされる」と卑下慢と、どちらもしたたかに私の考える以<wbr></wbr>前に行動を起こしているわけです。それともう一つ不可解なことが<wbr></wbr>あります。朝、隣人に挨拶しますでしょう。反応がないんですよ。<wbr></wbr>機嫌が悪かったりしてね。こんな時も「何で」と考えてしまいます<wbr></wbr>。自分の都合によって心はどのようにでも変化するのですね。です<wbr></wbr>から何をしでかすか、わかりません。他人事はいかようにも批判す<wbr></wbr>るのですが、評論家になればプロです。しかし自分のことはわかり<wbr></wbr>ませんね。自分の生活は何?後片付け?受け止めることができない<wbr></wbr>ものですから、火の粉を振り払うようにあくせくしているわけです<wbr></wbr>。それで苦しんだり悩んだりしてストレスがたまっていくのです。<wbr></wbr>そのストレスを何かによって解決しようとしているのです。「何か<wbr></wbr>によって」というのが問題ですね。満たされない問題を代役によっ<wbr></wbr>て一時満たそうというものですから無理があります。次から次へと<wbr></wbr>代役を求めてさ迷よはなければなりませんからストレスが沸騰する<wbr></wbr>のです。いずれ爆発します。そうしたら何が満足させるのかという<wbr></wbr>ことになりますね。親鸞聖人は「煩悩の所為なり」・「いよいよ往<wbr></wbr>生は一定とおもいたまうべきなり」と言っていますが、すごいです<wbr></wbr>ね、瞬時に起こってくる様々な心の変化は「煩悩の所為」であり、<wbr></wbr>それだからこそ「いよいよ往生は一定」であるというのですから。<wbr></wbr>煩悩が悪いわけではないのでしょう。確かに煩悩はわたしの身心を<wbr></wbr>煩わしますが、それに振り回されるのは私の都合ですね。どんなに<wbr></wbr>辛いことであっても喜びを感じることもありますでしょう。その反<wbr></wbr>面、目の前のものを取ってと言われて不快感を催すこともあります<wbr></wbr>ね。すべて自分の都合に合わせているのです。それがわかればいい<wbr></wbr>のですね。そこに慚愧心がいただかれ、無慚無愧のこの身がいただ<wbr></wbr>かれるのです。親鸞聖人は今ある事実を解釈するな。煩悩のなせる<wbr></wbr>行為であると直視せよ、と教えているように私には思えます。
 「無慚無愧のこの身にて
   まことのこころはなけれども
   弥陀の回向の御名なれば
   功徳は十方にみちたまう」(『正像末和讃』)