唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門第六回目講義概要 分別起の我執について

2013-05-22 23:45:09 | 唯識入門
 

分別起の我執について
 倶生起に対して今度は分別起の我執についてです。
「分別の我執は亦現在の外縁の力にも由るが故に、身と倶にしも非ず。要ず邪教と及び邪との分別を待って然して後に方に起こるが故に分別と名づく」
分別の我執は、「亦」といわれていますように、虚妄熏習の内因力と、現在の外縁の力にも由るのである、と。内因力の種子と邪教等の外縁との二縁に由って生起するということなのです。『述記』には「内縁には必ず籍る。兼ねては外縁にも斥る。故に外縁に於に亦の字を説く」と説明されています。
内因とは、阿頼耶識の中の種子を内的な原因で内縁といい、それより他の外的な原因を外縁といいます。そして「内的な因(自の種子)と(現在の)外縁とより生じるが故に縁生と名づく」、因を縁起、果を縁生と分けられて説かれていますが、生まれるということは、自の業種子と父母を縁として生まれてきたということなのです。生まれながらにして外縁を待ってということが分別が起こるということは必然なのです。
倶生起の我執は、「身と倶」といわれていましたが、分別起の我執は「身と倶にしも非ず」といわれて、倶生に異なることを顕しています。
「要ず」以下は分別の義を顕しています。「分別」は、邪教の分別と邪思惟の分別という後天的な分別を待って起こる、これが分別起の我執である、と。
邪教とは、仏教以外の諸思想の説なのですが、どうでしょうか、仏教以外ですから、西洋の諸思想や古代ギリシャの思想も含まれますし、古代インドのバラモンの思想も当然含まれています。それて邪分別ですから、自我意識に色づけされた自分の考えですね、これを邪分別といわれています。大まかに言えば、無我ではなく、有我を立てた思想全般ということになります。次に、
「唯だ第六意識の中のみに有ること在り」と説かれています。
分別起の我執は、唯だ第六意識のみに存する有間断にして麤猛のものである、ということです。これは執の所在を明らかにしています。「間断なり、麤猛なり、故に此の執有り」と。(『述記』第一末・十五右)

そして第六意識以外の諸識は、浅であり、浅は前五識・第八識を指し、細(第七識)なり、及び相続(第八識)するから、横計(おうけ)という、間違って考えるという邪分別を起こすことは無い。邪分別は必ず間断し麤猛である。第八識は浅にして間ではない、前五識は間では有るが浅である。第七識は倶に無い、従って分別起この我執は第六意識のみに在る我執である。
分別起の二種の我執について
「此に亦二種あり。一には邪教に説く所の蘊の相を縁じて、自心の相を起こし、分別し計度して、執して、実我と為す。二には邪教に説く所の我の相を縁じて、自心の相を起こし、分別し計度して、執して実我と為す」
 と二種の分別起の我執が述べられています。
 一は、即蘊の我、これは前回述べました。五蘊そのものが我であると分別し、計度して実の我であると執着しているのです。
 二は、離蘊の我です。
 我と五蘊の関係から、我の三種を説く。(前回)
 即蘊 - 身と心とがそのまま我であるとする説。
 離蘊 - 五蘊を離れて独立して有るとする説。
 非即非離蘊 - 五蘊に即するものでもなく、離れるものでもないとする説。
 それぞれ個別に説明されます。
 先ず、即蘊の我を破す。
 我が五蘊に即するというのであれば、五蘊と同じく常・一ではないであろう、と。我とは常・一の義といわれていますから、五蘊もまた常・一でなければならないのです。しかし、五蘊は積集の性(仮和合)と言われていますから、無常です。無常をもって常・一の我とはいえないということです。「又」と、五蘊それぞれについて論じられます。
 「内(うち)の諸色」(肉体・五根と扶塵根)も「外の諸色」(外の物質)のように、質礙(ぜつげ)
 質礙(ぜつげ)― 物質(色)が有する二つの性質(変壊と質礙)の一つ。物のさまたげる性質。同一空間・場所を共有することができないこと。
 同一空間・場所を共有することをさまたげるものは、我ではない、ということ。 尚、変壊は、事物・事象が変化して壊れること。苦が生じる因となる。
 「心」は心王・識
 「心所法」は、受・想・行 (余の四蘊)
 これも亦た、実我ではない、なぜなら、余の四蘊は衆縁(さまざまな縁)をまって生ずるから、相続しませんし、断絶がありますから、我とはいえないですね。
 「余の行」 諸行無常の行、有為法のことをいっています。最初の二つ以外の有為法(心不相応行法)と、「余の色」、外の諸色と法処所摂の色(五根と五境)五根は眼・耳・鼻・舌・身とその対象、色・声・香・味・触、それに意識の対象となる特別なもの、意識の所縁の色を法処所摂色といわれています。意識の対象となる特別の物質。、「第六識の無辺法界の事をしる中に有る色法なり」(『二巻抄』)法処とは意識の対象となる法という領域で、五識の対象とはなりえない、ただ意識の対象となるもの、という意味です。これらが、「覚の性に非ざるが故に」、覚性とは、心・心所のことで、「非」ですから、心・心所とは別なもの、たとえば虚空のようなもので、これを我というわけにはいかない。
 五蘊に即するのでもなく、離れるのでもなく、というのであれば、我とはいえない、「瓶等の如く」とは仮法ですから、仮法をもって我とすることはできない。
「故に彼が所執の実我は成ぜず」と。成り立たない。
 と説かれていましたが、そのような自心の相を起こして、分別し計度して実我と執しているのが分別起の我執ななおです。計度は簡単にいいますと、自分の損得勘定ですね、自分にとって、損か得かの判断を刀として分別していることなのです。
 しかし、この分別起の我執の行相は麤である、麤とはあらいこと、細という、微細のような目にみえないものではなく、麤猛という荒々しいものですから、断じ易いといわれます。見道に於いてその種子を断ずることが出来るのである。
 「此の二の我執は麤なるが故に断じ易し。初の見道の時に、一切の法の生空真如を観じて、即ち能く徐滅す」と。

 余談

 「問うて云く。諸仏の経は何を以ての故に初めに如是の語を称するや。答えて云く。仏法の大海には信を以て能入となし、智をもって能度となす。如是とはこれ信なり。若し人、心中に信ありて清浄なれば、この人よく仏法に入る。若し信なければ仏法に入ること能わず。不信の者は、是事、是の如くならずと言う。」(『大智度論』巻第一)
 智とは智慧、縁起の法です。これを般若の思想というのです。また中観・中道ともいいます。これが釈尊の目覚められた法だというのですね。所依の経典は『般若経』紀元前二世紀ごろに生まれました。縁起の法はどのようにひらかれるのかというと、それは智慧による、と。
 信とは智慧なのですね。智慧はなにかというと、心を清浄にするという働きをもつということなのです。信とはチッタプラサーダ(心澄浄)だと。心澄浄が自相・自性である。
信の対は不信ですね。不信は真理に対する否定、真理を否定することに於いて心が穢されてくる。信は智慧だといいましたが、智慧でないものを疑と、疑からは善は生じないといわれています。なぜかといいますと、「疑とは、諸諸の諦と理に対して猶予するをもって性と為し、能く不疑の善品を障うるをもって業と為す。謂く、猶予の者には、善生ぜざるが故に。」
 信ずるというのは、何を信ずるのかということですね。実・徳・能を信ずる。実有を信ずる、これが信の因となります。
 1.実有を信忍する。-事実として存在している真理(真に存在するもの)を信じ理解する。信忍は仏の慈悲を信じて、安らいだ心。(三忍の一つ。三忍とは真理を悟る三種の智慧のことで、信忍・順忍・無生法忍のこと)『正信偈』には「韋提と等しく三忍を獲、すなはち法性の常楽を証せしむ、といえり」(真聖P207)と述べられてあり、信心に賜る智慧のことです。
 2.有徳を信楽する。-徳は三宝(仏・法・僧の三宝)のこと。徳あるものを信じ尊ぶということ。楽(ぎょう)は喜び慕うという意。
 3.有力を信欲する。-信欲は信心への意欲、信じようという願いのこと。有力は自分に善を修める力が有ると信じること。そしてその力を得ようとする意欲のこと。
「信」の内実は智慧だと思うのです。親鸞聖人は智慧の念仏といわれます。「智慧の念仏うることは/法蔵願力のなせるなり/信心の智慧なかりせば/いかでか涅槃をさとらまし」と和讃のなかで教えてくださっています。わたしたちの方向性は大般涅槃なのですね。その大般涅槃に至る道が智慧の念仏といわれ、信心の智慧といわれるもので、法蔵願力より賜わるものであるといわれているのです。「信は願より生ずれば/念仏成仏自然なり/自然はすなはち報土なり/証大涅槃うたがはず」といわれているのです。『愚禿鈔』には「本願を信受するは、前念命終なり。・すなはち正定聚の数に入る。・即の時必定に入る。即得往生は後念即生なり」と述べられ、真実信心の大切さを教えてくださいました。
 私たちの根源的要求は私の根源からの求めてやまないものなのですね。その要求は「~の為に」といった功利的なものではないということでしょう。私のエゴはいつでも自分のために利用しようとします。仏法をも手段とするのです。しかし私はいったいどうなりたいのでしょうか。何を求めているのでしょうか。「仏道を習うとは自己を習うことだ。自己を習うとは自己を忘れることだ」とは道元の仰せであります。自分の欲望の為にすべてを利用しようとしても、欲望は際限なく無崖底の闇にさ迷うだけなのです。「自己を問う」ことがない限り私たちはどんなに頑張ってみても現在に落在することはないのでしょう。そのような,さ迷ういの人生を翻す働きをもったのが「信」なのです。「心をして浄ならしむるは信なり」とは唯識からの提言です。私たちには限りない欲望と共に、また限りない善を求める欲求があるのです。仏道を求めるのも善の欲求です。


第三能変 ・善の心所 信について (18) 信の作用 (16)

2013-05-22 21:43:26 | 心の構造について

 護法、論破して言う。

 「彼の二の体に離れては順の相無きが故に。此に由って応に知るべし、心を浄ならしむるいい是れ信なり。」(『論』第六・二左)

 彼(欲・勝解)の二の体を離れては順(随順)の相(自相)は無いからである。即ち、随順の自相は欲と勝解の働きであって、信の働きではない。これによって知るべきである。心を浄らかにするのが信である、と。

 「論。離彼二體至心淨是信 述曰。論主難云。若離欲・解決非順相。非彼二故。如受・想等。故論但言離彼二體無順相故。由此應知心淨爲信。忍可及欲是信之具。正理論師以忍可爲信。即當此勝解也。」(『述記』第六本下・七左。大正43・ 435a)

 (「述して曰く。論主難じて云く。若し欲と解とを離れて決して順の相に非ず。彼の二に非ざるが故に。受想等の如し。故に論に但だ彼の二の体に離れて順の相無きが故に、此れに由って応に知るべし、心の浄なるを以て信と為す。忍可及び欲は是れ信の具なり。正理論師忍可を以て信と為すは即ち此の勝解に当たるなり。)

 忍可とは、勝解のことです。忍可と欲は信の具であると説明しています。具ですから、まあ材料ということになりますね。信そのものではなく、信の具材、信が備えていうものということになります。他の大乗の異師や大衆部の論師の主張は、信の因(忍可)と信の果(欲)を信の自相と錯誤しているのである、と論破します。正義は、信は心を浄らかにする働きである、と。

 


第三能変 ・善の心所 信について (17) 信の作用 (15)

2013-05-22 00:02:44 | 心の構造について

 護法の論破

 「若し印して順ずるならば、即ち勝解なるべきが故に。若し楽うて順ずるならば、即ち是れ欲なるべきが故に。」(『論』第六・二左)

 もし信が、印して順じるものであるならば、それは即ち勝解に他ならない。そして、信が楽って順ずるものならば、それは即ち欲に他ならないのであって、信ではない。

 前科段において、大衆部及び大乗の異師の説として、「信は随順することを以て自相とする」と主張していましたが、護法はこれを論破したことをうけて、更に反論をするという構成になっています。「その体は欲と勝解ではない」と。体は欲と勝解でなないという反論に対して護法は論破します。随順の体こそが勝解や欲に他ならない、と。

 随順に二種あるというのが護法の正義になります。一には印順は、つまり勝解である、信が印して対象に順じるものであるならば、それはつまり勝解に他ならないのである。二は、楽順(楽って順じるものであるならば)つまり、これは対象を楽うものであるから、欲の心所のことである。

 従って、「信の体は随順することをもって自相とする」という限り信は勝解と欲の心所と同じことなり、それは信ではないと論破します。

 「論。若印順者至即是欲故 述曰。論主難云。隨順有二種。一者印順即是勝解。印而順彼故。二者樂順即是欲數。樂於彼法即是欲故 若彼救言二倶之順體是信。非即欲・解。」(『述記』第六本下・七左。大正43・435a)

 「若彼救言二倶之順體是信。非即欲・解。」(若し彼救して二倶なるの順の体是れ信なり。即ち欲と解とに非ずと言わば)

 「二倶(勝解・欲を同時に備えたものが)なるものが随順の体なのであって、これが信である、随順の体は欲と勝解なのではない」というのであるならば、と大乗からの異師の再反論が提出されています。