唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 信について (15) 信の作用 (13)

2013-05-18 00:12:37 | 心の構造について

 お知らせ

 『心の構造について』 第二回目講義を、旭区千林 正厳寺様で来たる5月19日午後三時より開講させていただきます。今回は第八阿頼耶識の構造と信の作用について共に考えてまいりたいと思っています。

 5月25日は、八尾市本町 聞成坊様で『成唯識論講義』第6回目を開講します。今回は分別起の我執について考えます。

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 異説を述べる。先ず上座部の説、或は大乗の異師の説です。

 「有るが説かく、信は愛楽するを以て相と為すという。」(『論』第六・二右)

 有る義は次のように説いている、信は愛楽するということを以て自相とする、と。ここでいう愛楽とは、対象を愛し楽うこと、欲のことである。

 「論。有説信者愛樂爲相 述曰。上座部義。或大乘異師。謂愛樂彼法故。」(『述記』第六本下・六左。大正43・434c)

 (「述して曰く。上座部の義なり。或は大乗の異師、謂く彼の法を愛楽するが故に。」)

 第二は、論主(護法は) 論破していう。

 「応に三性に通ずべし、体即ち欲なる応し、又苦集は信の所縁に非ざる応し。」(『論』第六・二右)

 上に述べてきたように、上座部や大乗の異師の説である、「信は愛楽を以て相と為す」ということならば、信はまさに三性(善・悪・無記)に通じてしまうことになる。そのような信の体は欲になるであろう。また、苦諦と集諦は信の所縁ではない、苦諦や集諦は愛楽されるようなものではないからである。しかし、上座部や異師の説であるならば、苦諦も集諦も信の所縁になってしまう。このような主張は容認することはできず、誤りである、と論破しています。

 信の自相は「心を澄浄する」ことを自相としているのですから、欲を対象とするならば、悪をも愛楽する対象となるという問題が起こる。信は欲の心所ではなく、悪・無記を対象とするものではないことから、上座部・大乗の異師の説は退けられる。

 次は、苦諦・集諦は信の所縁ではないということを論破します。  (つづく)