『演秘』に「疏に即是れ二縁とは、顕揚の自と法と等の二は、是れ慚の縁なり」と説明されています。
慚が、自と法とを縁として生起することを此の科段で述べています。
「謂く、自と法とを尊し貴する増上に依って、賢と善とを崇重し、過悪を羞恥し、無慚を対治して、諸の悪行を息む。」(『論』第六・二左)
自とは自身です。慚は自身において自ら尊愛することを生ずるものであり、法において貴重することを生ずものである、と説かれています。「増上」は自と法とにかかる縁ということです。これに依って(自と法とを尊し貴する増上力)賢と善とを崇重し、過悪を羞恥し、無慚を対治して、諸々の悪行を止息させるのである、と。
自と法の二種を挙げて、慚の心所の意義を明らかにしています。ここでいわれている自は、我執の自という意味ではありません。法に依って見出された自という意味になります。機という意味ですね。機の深信です。機・法の二種の深信が、自ずと自を尊し貴する増上縁となり、賢と善とを崇重し、過悪を羞恥する心が生れるといわれています。これが因ですね、因となって、無慚を対治し、諸々の悪行を止息させるのであるという果を生み出してくるのです。