護法の答え
「豈適(サキ)に言わずや、心を浄ならしむるを以て性と為す。」(『論』第六・初左)
「論。豈不適言心淨爲性 述曰。適者向也・纔也。」(『述記』第六本下・四左。大正43・434b)
適 - 適(シャク)とは向(サキ)・纔(ハジメ)という意である。「シヤク」と読む場合には、「さき」の意味になり、「チャク」と読む場合には、「たまたま」「かなう」という意味になる。
どうして、サキに述べなかったのか、今まさに述べるであろう。「心を浄らかにすることを以て自性とすると」。
信の自相とは何か、について答えられます。
尚、自相・自性・自体(本質的な働き)は同意として用いられています。信の本質的な働きは「心を浄らかにすること」なのですね。従って欲・勝解が信の自性ではないということなのです。
「此れ猶未だ彼の心浄という言を了せず。若し浄即ち心なりといわば、応に心所に非ざる応し。若し心を浄なら令むといわば、慚等と何ぞ別なる。心と倶なる浄法ぞといわば、難と為ること亦然なり。」(『論』第六・初左)
外人からの批判である。
外人は更に護法の答えに対して批判を加える。「これだけの説明では、なお「心浄」という言を了解(理解)することは出来ない。もし、浄がそのまま心であるというのであれば、信はまさに(心王であって)心所ではないであろう。もし、信は心を浄らかにするというのであれば、信は慚等とどこが異なるのであろうか、異なるはずはない、同じものになるのではないのか。また、信は、心と倶である浄法であるというのであれば、心浄の場合と同じような問題が起こるであろう。
① 浄がそのまま心であるというのであれば、信はまさに(心王であって)心所ではないであろう。(「浄の体が即ち是れ心の持業釈にして、信は心所に非ざるべし。浄即ち心なるが故に。」)
② 信は心を浄らかにするというのであれば、信は慚等とどこが異なるのであろうか、異なるはずはない、同じものになるのではないのか。(「浄の体は即ち心に非ず、心を浄なら令むるならば、心の浄なるが故に依士釈に依る。」)
③ 信は、心と倶である浄法であるというのであれば、心浄の場合と同じような問題が起こるであろう。(信の意味が、心と倶である浄法であるという意味であるならば、①と同様の問題が起こると批判しています。)