唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 信について (7) 信の作用 (5)

2013-05-07 22:39:47 | 心の構造について

 第二は、有徳を信ずる信について説明される。

 「二には有徳を信ず、謂く、三法の真浄の徳の中に於て深く信楽するが故に。」(『論』第六・初左)

 二には有徳を信ずる、つまり三法(徳を有した仏・法・僧の三宝)の真浄の徳に対して深く信楽(仏・法・僧の三宝の徳を信じ楽う)するからである。有徳を信ずという信は、願うこと(欲)が信という意味になります。

 『述記』の説明から伺いますと、三宝には、同体・別体と有漏・無漏と住持・真行のあらゆる三宝はすべて有徳に摂められるのであると、即ち、「有徳を信ずる」とは、これらすべての三宝の殊勝な徳を信ずることである、と。

 真如は真浄である。その他は真浄の方便にして亦真浄と名づけるのであると説明されます。

 至心・信楽・欲生の信楽です、また楽は「愛楽仏法味」といわれる、楽というのは、欲の心所になります。「有徳を信ずれば、自ずと三宝に順じ、三宝を願うことが生起するという意味なのですね。

 「論。二信有徳至深信樂故 述曰。同體別體・有漏無漏・住持眞行所有三寶。皆是彼攝。如眞淨故。所餘是此眞淨方便亦名眞淨。」(『述記』第六本下・三左。大正43・434a)

 (「述して曰く。同體別體・有漏無漏・住持眞行とのあらゆる三宝は皆彼に摂す。如は真浄なるが故に、所余は是れ此の真浄の方便なるを以て亦真浄と名づく。」) 

 第三は、有能に対する信について説明される。

 「三には、有能を信ず、謂く、一切の世出世の善の於に、深く力有って能く得し能く成ぜむと信じて、希望(けもう)を起こすが故に。」(『論』第六・初右)

 三には有能を信ずる信である。つまり、世(世俗世間)の善と、出世間の善とに対し、深い力をもって、よく得ようとし、よく成し遂げんと信じて希望(欲の心所)を起こすからである。有能とは一切の善法を指します。世出世(自と他者)に対して一切の善法を成し遂げようと希望することを起こす、というのが有能を信ずる信である、といわれています。

 「論。三信有能至起希望故 述曰。謂於有漏無漏善法。信己及他。今能得後能成。無爲得有爲成。世善得出世成。起希望故。希望欲也。忍・樂・欲三如次配上。對法但言謂我有力能得能成。且據自成。此亦通他總致能得等言 上來已解信所依訖。隨文便故未解心淨。次釋彼業。」(『述記』第六下・三左。大正43・434a~b)

 (「述して曰く。謂く有漏無漏善法に於て、己と及び他との、今能く得し、後に能く成じ、無為を得し、有為を成じ、世善を得し、出世は成ぜんと希望を起こすが故に。希望とは欲なり。忍楽欲の三は次の如く上に配す。対法には、但だ謂く我力有って能く得し能く成ぜんと言う。且く自成に拠る。此は亦他に通じて総じて能得等の言を致せり。
 上来已に信の所依を解し訖る。文便に随うが故に、未だ心浄を解せず。次に彼の業を釈す。」)