唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (27)  第一章第四節

2013-04-07 19:24:49 | 『阿毘達磨倶舎論』

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 明日は、釈尊降誕会(花まつり)です。

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 分別界品第一(十八界の分類的考察)

 第四十頌・第四十一頌 (第十九見非見門)

 眼法界一分 八種説名見 五識倶生慧 非見不度故

 眼見色同分 非彼能依識 伝説不能観 被障諸色故 

 (眼と法界の一分の八種とを説いて見と名づく。五識倶生の慧は見に非ず、不度(フタク)の故なり。眼の色を見るは同分なり、彼能依の識に非ず。伝説すらく、被障の諸色を観ること能わざるが故にと。)

 どれだけが見であるのか、五識と倶である(有漏の)慧は見ではない、推度の意であるからである。同分の眼こそが見るのであって、眼を依りどころとする識(眼識)が見るのではない。

 見に二種あることを述べています。

 ①は、眼根が物を見ること。眼根は見であるという。

 ②は、慧の一分である推度作用を見という。「法界の一分の八種」とは、法界の一分である、身見等の五染汚見と有漏の正見・有学の正見・無学の正見の八種は、慧の一分である推度作用という意味で見である。

 その他はすべて非見である。五識は無分別なるが故に、その倶生の慧は見とはいえない、何故なら、無分別なるが故に推度しないからである。

 五句以下は、根見識見の争論が述べられています。『倶舎論』巻二・十四左、以下に詳しく説かれています。

 根見とは、認識対象を見るという作用は認識器官(根)にあるという見解、眼根が見るという説です。それに対し識見とは、認識対象を見るという作用は認識作用(識)にあるという見解、目識が見るという説になります。『倶舎論』巻二の記述は両者の諍論を詳細しています。

 識見家の問い、眼根は推度(思考すること・推度を見と名づく。邪見とも名づく。計度と同じ)しない、にもかかわらず、どうして見と名づけることができるのか。

 根見家の答え、眼根は諸色をよく観照(智慧の光が対象を照らしだすこと。「浄根、普く観照す」)するから、見と名づけ得られるのである、と。

 問い、どういう眼根が見るというのであればいつでも見るべきではないのか。

 答え、凡ての眼根が見るものではない。

 問い、どうのような眼根が見るのであるのか。

 答え、眼根が識と合する位によく見るのである。

 問い、それでは識が見ているのではないのか。

 答え、識は能見ではない。

 問い、何故か。

 答え、壁の向こうにあるものを見ることはできない、若し識見ならば、これを見ることができる筈である。識は、被障の事物においては眼識は生起しないからであり、識が生起しないかぎり見ることはできない。

 ・・・・・・ 

 『経』に眼よく色を見るというのは、眼根が見の所依だからである、また意よく法を識るという。これは意識が法を識るのであるが、その所依について意という、今はこれと同じ論理である、という。

 


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