唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門・重解六位心所(41) 別境・独並門

2013-04-08 06:59:00 | 心の構造について

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 「論。如是至三十一句者。總別之言傳有二釋。一云二二至五名之爲總。一一別起説名爲別。二云起一至四名之爲別。合起五種説名爲總 詳曰。後解爲正 問且合縁者。境二或四。豈不違彼同聚心法一所縁耶答本質境一。對能縁者。義分四等名所樂等。理固無違。且如一境。謂欲觀察即名所樂。勝解印持即名決定。念明記時即名曾習。定注惠擇即名所觀。由斯同聚心法境一」(『演秘』第五本・十六右。大正43・913a)

 (「論に如是と云うより三十一句と云うに至るは、総別の言は伝に二の釈有り。
 一に云く、二二より五に至るを、之を名づけて総と為し、一一に別に起こすを説いて名づけて別と為す。
 二に云く、起一より四に至るを之を名づけて別と為す。合して五種を起こすを説いて名づけて総と為す。
 詳にして曰く、後の解を正と為す
 問、且く合縁するは、境は二或は四ならば、豈に彼の同聚心法は一所縁と云うに違せざるや。
 答、本質の境は一なれども能縁に対しては、義を以て四等を分ちて所楽等と名づけ、理固より違うこと無し。且く一境において謂く欲は観察するを即ち所楽と名づけ、勝解の印持するを即ち決定と名づけ、念の明記する時を即ち曾習と名づけ、定は注し慧は択するを即ち所観と名づくるが如し。斯に由りて同聚の心法境一なり。」)

 四つの境(所楽・決定・曾習・所観)に対して、欲・勝解・念・定・慧の五つの心所を生起することを述べ、総と別とを合わせると三十一種あることを説明しています。

 別境の心所がすべて生起しない場合について

 別境の心所が、すべて生起しない場合について  

 「或いは有る心の位に五ながら皆起さず、四の境に非ざる卒爾堕心(そつにだしん)と及び蔵識と倶なるとの如きぞ。此の類非一なり」(『論』第五・三十三右)

 或いは、ある心の位では五つの別境の心所はすべてが生起しない。その訳は、四つの境ではない卒爾堕心(そつにだしん)と、蔵識と倶であるような場合である。このような類は一つではない、多くみられる。

 「論。或有心位至此類非一 述曰。六識一時中五皆不起。如非四境現前。於散疑境等率爾心起六識。皆無此欲等五。此擧麁顯。乃至等流亦有此事。准義應知。或第八識倶此五亦無。第七識如前有諍。故知欲等非必定倶。」(『述記』第六本上・二十三右。大正43・432b) 

 (「述して曰く。六識一時の中に五皆起こらず。四境現前するに非ずして、散の疑の境等に於て卒爾心の起れる六識の如し。皆此の欲等の五無し。此れは麤顕なるを挙げたり。乃至、等流にもまた亦此の事有り。義に准じて応に知るべし。或いは第八識と倶にも此の五亦無し。第七識においては、前の如く諍あり。故に知る、欲等は必定して倶なるに非ず」)

 六識一時の中には五つの心所は、すべて生起しない。四境(所楽・決定・曾習・所観の境)は現れないで、散心の疑の境などで、五心の最初の段階である卒爾心に於いて生起する六識のようなもので、そこには別境の心所は生起しない。等流心などにも、亦同様である。或いは第八識とも別境の心所は倶に生起しない。第七識も同様である。以上のことから別境は、心王が生起する時には、必ず倶に生起して相応する遍行でないことがわかるのである。 

 五心ですが、「先ず眼識が善の色境を縁じ、五心を経て、至ってなお、多念の間、眼識は善の等流心として相続する。しかし俄に不善の声が聞こえたとする。すると不善の声境が現前して耳識が起こり、同時に意識は不善の耳と同じく声を聞く。そこで不善の意識が起こり不善の耳識を起こす。(声の境勝れたるをもって)認識作用は後に起こった方が強いので(牽引力)善の色境があるのだけれども、今の耳の不善と並び立つことになる。そこに無記の香境が現前し鼻識が起これば、意識はこれを認識して無記の意識となり、善・不善・無記の三性が並び立つことになる。善か、不善か、無記の初めて対象に向かいはじめた心を卒爾心と呼び、五識のはたらきになる。次の刹那、即ち尋求心(これは何故かと尋ね求める、探求する心)から、染浄心は、第六意識の範囲となる。尋求心から決定心(けつじょうしんー尋ね求めようとした事柄が明らかになった心。決定し得た心)を経て染浄心になるわけです。染浄心は決定し得た心が染なのか、浄なのかを起こす段階の心だといわれます。ここで善・不善・無記の心が起こるのです。例えば初めの眼識は善の等流、次の耳識は不善の等流、後の無記の鼻識が起こってくると卒爾は多くあるけれども、現前の意識は牽引力に依り無記の鼻識を認識しているのですが、前・次の等流心が無くなったのではなく隠されているのです。五識がいろいろな形で現行してくるわけですが、そこに第六意識が認識し倶起するのです。これにより三性が並び立つこともあり得るというわけです。(問い)五識が三性並び立つというのであれば、それを認識する第六意識が一時に三性並ぶという誤った理に陥ることは無いのか。(答え)「一の意識と五と同縁す」意識は前五識とは同時に起こるものではあるけれども、その性までもが同じというわけではない。 以上

 善・不善・無記の境を認識した最初の卒爾心はいったん起してしまったならば一刹那の問題ではな、一旦起した結果は無くならないという事です。意識の上には上ってこないと思っていても意識に引導された五識が生起して等流心として存在する場合に、別々の三性である五識が並び立つことがあるというわけです。 


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