唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

雑感 講義補足内容

2015-11-26 23:47:28 | 雑感
  

 今日は、聞成坊様で、唯識の講義をさせていただきましたが、最後はすごくはっしょってしまいました。遠方よりお越しいただきましたのに申し訳なく思っています。経量部の主張からの一段になりますが、来月の講義までに整理をさせていただきたいと思っています。
 一応の論旨を述べさせていただきますと次のようになるかと思います。ご拝受ねがえたら幸いです。
 「次科段は、経量部の説を破斥します。
 「然るに今大乗は一切有部に同じく触の体は是れ実なりと云う(『倶舎論』第十巻に説かれる)唯、経部の一師は三和して触を成ずと云う者、大乗を難じて(大乗を批判して)曰く、触は是れ三和と説かば、何が実体有ることを得んやと。彼が計を破さんとして、故に説いて云く。」(『述記』
 大乗の論破の要旨は、
 「然るに触の自性は是れ実にして仮に非ざるべし」(『論』第三・二右) と。
 経量部の主張は、三和の他に触はないんだと、いうわけですね。三和の他に触という実体は無いわけですから、触は仮ということになります。大乗は、触は仮ではなく、触の自性は実のものであると主張します。ここに三つの証拠を挙げて論証してきます。
 触は仮のものではなく、触の自性は実であることを、三因を以て証明します。第一が、六の六法の中の心所に摂められる。
 「六の六法の中に心所の性なるが故に」(『論』第三・二右)
 ここでいう、六の六法は、『界身足論』の説です。『界身足論』は、説一切有部における六つの論書の中の一つで、六つ合わせて、『六足論』と呼ばれています。足は各論という意味ですね。『界身足論』は、『(阿毘達磨)界身足論』(あびだつま かいしんそくろん、Abhidharma-dhātukāya-pāda-śāstra, アビダルマ・ダートゥカーヤ・パーダ・シャーストラ)と呼ばれているものです。
 『倶舎論』や『阿毘達磨順正理論』等で言うところの、六内処・六外処・六識身・六愛身・六触身・六受身とでは少し違って説かれています。
 『界身足論』には、六識・六触・六受・六想・六思・六愛の六の六法を表しています。
 六識は、六識身のことで、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六つの集まり。
 六触は、六触身のことで、眼触・耳触・鼻触・舌触・身触・意触の六つの集まり。
  触とは、根(感覚器官)と境(認識対象)と識(認識する心)との三つが和合したところに生じ、生じたところから逆に和合せしめる心所をいい、根・境・識とのそれぞれ六つあ  り、三者の結合から生じる触にも六つあることになります。
 六受とは、六触から生じる六つの受の集まりことで、まとめて六受身と云う。
 六想とは、六触から生じる六つの想の集まりことで、まとめて六想身と云う。
 六思とは、六触から生じる六つの思の集まりことで、まとめて六思身と云う。
 六愛とは、六触から生じる六つの貪愛の集まりのことで、まとめて六愛身と云う。
 この場合の身とは、触所生の受身・想身・思身・愛身のことですが、すべて触から生じるということで、これが触れが自性あるという根拠になるわけです。個の根拠を以て、経量部の仮法であるという主張を論破してきます。
 「触は別に体有るべし。六の六法の中に心所の性なるが故に」(『述記』)が結論として説かれてきます。
 第二の因は、食(じき)に関してです。 
 「是れ食に摂むるが故に。」(『論』第三・二右)
 食は四食を指しますが、食が体を支えている。つまり、身を養う段食・触食・意思食・識食の食事をいいますが、この四つは身体を維持する支えとなる食なんですね。例えば触食ですが、触れるという食事という意味なのですが、私はあなたとの触れ合いの中で私の身を養っているし、養われていることなんですね。触ることにおいて身体を作っていることは、仮のものではないという証明になるわけです。
 段食(だんじき)は、食べ物一般のことですが、私と関係する時には、口の中に入れて噛み砕き、段々と食べることから段食といわれます。これも私の身体、命を支えているものですから仮のものではありませんね。
 意思食(いしじき)とは、意志と云う食事。意思を食事に喩というわけですが、浄土に生まれようと意欲を起こし希望することが心によい影響を与え、それが身体を養うことにつながるのですね。
 識食(しきじき)とは、心の深層識である阿頼耶識によって身体が生理的に維持され、寿命全うするまで腐食することなく存続されていることから、識を食に喩て識食といっているわけです。
 『成唯識論』では巻第四冒頭に、四食の証明が引かれてあります。『選注』ではp69~p71になります。
 「この四は能く有情の身命を持して壊断せざらしむるが故に名けて食と為す。」と説明されています、つまり、有情の身命を保って、身命を壊さないで保持していく働きを持つのが食だというわけです。
 冒頭の文章は、
 「契経に説かく。一切の有情は皆食に依って住すと云う。若しこの識無くば彼の識食の体有るべからざるが故に。謂く契経に説ける食に四種あり。」ここから説かれるわけです。
 触の心所は実で有ることの証明をしているところですが、十二支縁起をみましても、「触を縁として受あり、受を縁として愛あり」といわれていますように、触は直接受の基礎になっている、受の所依は触であることを語っています。このことは、五遍行においても、触が、受・想・思の所依であることを明かししているものと思います。
 『論』の「能く縁となるが故に」ということは、触が実有であり、受・想・思の所依と為ることを明らかにしているわけですね。
 『述記』にも、
 「縁起支の中の心所に摂むるが故に。愛は取に縁たるが如し。愛は思の分位なるが故に彼も亦実なりと許す。諸の心所の支は皆是れ実有なるを以てなり。・・・」と。
 受(感受作用・感情)は触が元になっており、触は処が元になっているわけです。処は根・境・識ですね。つまり、十二処・十八界が触の背景になっている。六根・六境と六識の三和から触が生起してくることが解ります。しかし、触ということが、すでにして三和しているということなのです。三和が因として、果は触。触を因として三和が果という構図になります。
 ここも、因縁変として説かれ、分別変ではないということです。考えられたものではなく、事実を事実たらしめているもの、それが触であるということ。三和して触が生まれると云うけれども、触という事実が、三和しているという事実になるわけです。説明すれば、交互因果関係になります。
 種子としてあるときは、三は和合していないのですが、種子が縁に触れて現行する時に、変異して分別(ぶんべつ)
するわけです。もの柄が違ってきます。種子が相をもつわけです。それが三和生触ということなのですね。
 安田先生は、 
 「かくのごとく、三和の用きを触が分別しているから、心心所を境に触れしめる。それが自性になる。一切の心心所を和合して、一つのグループとして境に触れしめる。つまり、眼識が起こるなら、眼識は色の知覚であるが、そうすれば、そこに色についての感情が起こる。声として境に触れれば、声というものについての感情が起こる。
 かくのごとく、触が一切の心心所を境に触れしめるのが自性であるから、他に対してはそれをもって受・想・思の根拠になるのである。」(『選集』巻第二、p211)
 と教えてくださっています。
 触は仮有のものではなく、実有であることの第三の証明として、十二支縁起で説かれている、触・受・愛を出していました。「縁起支の中の心所に摂むるが故に。愛(欲望・渇愛)の、取(執着行動)に縁ぜるが如し」(『述記』)と。
 行相所縁門をうけて、心所相応門が展開されているわけですが、種子から現行を生起する時に、根・境・識が三和合し、境に触れしめる心所として、触が語られるわけです。触れたら、そこに新たな実種を生みます。それが「異熟識が持する所の一切の有漏法の種なり、この識の性に摂めらるるが故に、是れ所縁なり。」と説かれていることなのですが、これに先立って『唯識二十論』には、次のような記述があります。
 「識は自の種従り生じ、境の相に似て転ず。内・外の処を成ぜんが為に、仏は彼を説きて十と為す。(第八頌)
 「論じて曰く、此れは何の義を説くや。色に似て現ずる識は自の種子の縁が合し転変差別すること従りして生ず。・・・」
 つまり、阿頼耶識は阿頼耶識の中にインプットされた種子より生じ、外境に似て、似た相を顕現しているわけです。
 「仮に由って我・法と説く。種々の相転ずること有り。彼は識が所変に依る。」と、識の所現は、識の所変に依ることを明らかにしたわけです。
 「識体転じて二分に似るを倶に自証に依っておこるが故に」と。
 種子から現行が生じてくるのは、種子が自己内容となることなんです。ですから、いかなる種子を植え付けるかが問題となりますが、ここで問題となることは、縁生なんです。阿頼耶識の種子より現行を生じてくるのは、縁起されたものなんですね。
 「任運に法爾にこの現前の境遇に落在せるもの」が自己存在なんですね。ここには分別の入り込む余地はないんですね。蓮如上人は「仏教は無我にて候」と教えてくださっていますが、本来、似我・似法であって、実我・実法は存在しないのです。執して、謬って錯誤しているにすぎないのですが、私たちは、無常の風に流されながらも、生まれて死ぬまで、一貫して変わらない自分が存在していると思い込んで、自分に執着を起こして暮らしています。
 ヒントになるのが、
 「阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り。心(第八識)と及び意(第七識)とに依止して、余の転識(六識)生ずることを得と云う。阿頼耶識の倶有所依も亦但一種なり。謂く第七識ぞ。彼の識無くば定めて転ぜざるが故に。論に蔵識は恒に末那と倶時に転ずと説くが故に。・・・」(『論』巻第四)
 ここはしっかりと学ばなくてはいけないところです。課題として提起しておきます。
 そこで問題提起されているのが、第四頌第三句です。
   「恒転如暴流」(恒に転ずること暴流のごとし)
 第八識は、間断することなく、恒に(無始以来・未来永劫に亘って)転じている。あたかも、ナイアガラの大瀑布のようにです。この科段は後に詳細を述べますが、第七・因果法喩門と呼ばれています。「相続」と「因・果」が課題として提起されています。
 先ず、断見・常見の問題です。
 「阿頼耶識をば、断と為すや、常と為すや。」
 輪廻と我の問題です。十二支縁起も、無我の道理を理解できませんと、「我」が存在して、それが輪廻するということになってしまいます。しかし、私たちは我を依り所として生命活動を起こしています。
 自業自得という言葉がありますが。自らの造った種は自らが摘み取らなければならないということなんです。道理なんですね。縁起されたものなんですが、自らが引き受けることができないという問題が起きてきます。縁起に逆らうわけですね。本来は縁起されたものなんです。
 「阿頼耶識は断にも非ず常にも非ず。」と。
 ここで、一類相続という、無覆無記性として恒相続しているが明らかにされます。
  「受等の性の如く即三和に非ざるべし」(『論』第三・二右)
 「触」は仮のものではなく、実の用きがあるものであることの結論を述べます。
 経量部の一師は「三和成触」という、触は即ち三和のことであって、触は仮に説かれたもので実のものだはないという主張します。。それが先に述べました、三因に由って実であることの証明をしてきたわけです。
 また経量部の一師は、三和して触を生ず(「三和生触」)と主張する。三和して触を生ずる触は三和ではないと説いているわけです。
 また説一切有部の主張は、触の体は実であるけれども、変異に分別して心心所等を生ずることはなく、ただ受等の所依になることを業とするものであると説きます。
 これらの主張を、前段では、三因を以て論破したわけです。結論の言葉が「如受等性非三和」という本科段になります。本科段の意味するところは、受等が実であるように、経量部の一師が主張する「三和が即ち触であり、三和以外に触というものはないから、三和=触であり、触という実はなく、三和そのものが触であるから、触は仮のものである。」ということはないんだと云っているわけですね。
 三和と触との関係は大変難しいところではありますが、大乗は「触の自性は是れ実にして仮に非ざるべし」と説きます。そして有部との違いは「三和して変異に分別す。心心所を境に触れしむるを以て性と為す」と。
 触は実のものであり、境に触れしめる作用があるんだと主張しています。触・受・愛ですね。触れたその時は、受の所依となることはあっても、それほどの執着はみられないのですが、触・受となりますと、受は愛着の所依となりますから執着が深くなってくるわけですね。五受相応とみましても、迷いがだんだんと深くなってきます。
 触・受は実の作用あるものですから、十二縁起の中に入っているわけですし、遍行の心所にも入っているということになります。仮に説かれたものではないということなんですね。
 やっぱり、触は因縁変なんでしょうね。考えて触れることはないんでしょう。触れた瞬間に、同時にバラバラであった根・境・識が三和して認識が起こる、触れても、認識が起こらない場合がある、その時は三和していないということであって、三和していないと対象を認識しませんから、触の心所は動いていないということになるのでしょう。

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