唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

日曜雑感

2017-06-25 12:03:49 | 雑感
 
 朝からあいにくの雨模様です。梅雨前線北上で梅雨空が続きそうですね。
 今朝中部地方を中心に震度五強の地震がありました。被災地の皆様にはお見舞い申し上げます。
 今日の雑感は、読者の方からの投稿を紹介します。在家の方ですが、よく学ばれている、本当に刺激を与えてくださっている方です。
 この投稿は妄想ですと仰られたのですが、妄想では書けないと思います。若し妄想であれば、妄想であると知り得る自分に出遇れたということでしょうね。投稿していることが我見であると知り得ておられるのかどうかは聞いてみなければ判りませんが、深い眼差しをもって書いておられます。
 どうぞ、最後まで読んであげてください。

 「人生ただの死ぬまでの暇潰しか?と思ってましたが、最近は多くの縁があり、そうでもないのか?と思うようになりました。独りでは生きられないし、死ぬことすら出来ないのか。と最近は感じています。
他者との縁、ご縁は自分自身が招いているのだと感じています。
生きていく上で最大の悩みは人間関係でしょうか。最近特に感じます。自分自身が招いていて、それで苦しんでいる。おかしな話です。しかし、今見ている世界は自分自身が作った世界、とすれば、他者も自分自身が作っているものなのでしょうね。
自分自身が今見ている世界は自分自身しか見えない、他者と同じ景色を見ていても異質なものとして捉えている。
 私は、他者と世界を共有する事は出来ないのか、という問いを持ち考えています。
 例えば、お酒を飲める人であれば、お酒は自分自身の世界の中にありますが、飲めない人にとってはその世界の中にはありません。下手をすると毒にしかお酒は感じられません。僕自身飲めないから本当にそう感じています。
 ではどうすれば、他者と世界を共有する事が出きるのでしょう。
 他者すら自身の作っているものと理解し、また他者の全てを知る事が不可能だと、理解しなければならないのでしょうか。あいつはあんな奴だ、彼は、彼女は本当はあんな奴だ、と決めつけない事が重要だと思っています。
他者を自身の決めつけによって作る。これはどういった感情から生まれてくるのでしょうか?
自身を守るといった感情からだとおもいますが、他者の性格を決めつける事によって、自分自身の考えは正しい。としていると思われます。自分自身の考えだけに囚われているだけかもしれませんね。そうしなければ、自分自身が無くなるといった恐怖心にかられるのかもしれません。
他者との関係は非常に難しく、しかし生きていく上では絶対的に必要なものです。関わっていないつもりでも、電車に乗れば、車両を作った他者がいるわけで、関わっていると考えられるのではないかと。生きていくとは、他者との関わりを遮断することは不可能ということになるのでしょうね。
他者との関係は非常に難しく、いざこざも起こる。しかし他者との関わりを完全に遮断する事は不可能。ということは、人生は苦痛だけしかないのでしょうか?そうではないでしょうね。全ての問題を外の責任とするからでしょうね。自分自身は悪くない、下手をすれば悪くない、ではなく全く悪くないと決めつけている自分がいます。ここに苦しみの原因があるのでしょうね。
結局は自分自身だけの考えに囚われていないか?と問われているのでしょうね。僕自身も過去の経験から自身の考えに囚われていました。他者が僕自身を教えてくれていたのにそれを否定し、自身の考えに囚われていました。反省すべき事です。
人はどうしても過去に囚われてしまうのではないかと。過去の経験からしか物事は判断出来ないと思われます。知らないものは判断のしようがありません。
過去の経験から判断する。これが物であればまだ良いのかもしれません。しかしこれが他者を判断する場合、自身の過去の経験から他者の性格を作ってしまうのは危険な事でしょう。他者を自身の都合の良いように作ってしまい、自身の作った他者との違いがいざこざを起こすのでしょうね。
自身と他者だけの問題でおさまっていればまだよいのかもしれません。周囲の他者が入って来るとまた問題は大きくなるでしょう。何故ならいる人間の数だけ他者が作くられてしまうからです。しかし多数人間がいても二つの意見になります。善か悪か。です。中間は存在しないと思います。誰かを悪としなければならないのが自分の正体なのかもしれません。では誰が悪になるのか?です。
 自分自身を見ようとしない人間は、他者のせいにして、自身の全てを正当化します。少しでも批判されれば、他者を攻撃します。これは臆病という感情から起こってくるのではないかと思います。私自身がそうですが。
自分自身を見ようとしている人間は、外に原因があるのではなく、自分自身に原因があったのではないか?と考えると思われます。しかしこの考えも両刃の剣で、いつも他者のせいだった。と考える危険性があると思われます。自分自身を責めすぎると、自身に閉じ籠ってしまう危険性もあり、非常に難しい事と思われます。
最後に、人のご縁とは何か?自分自身を知らせてくれるのは他者しかいない、しかし他者すら自身の都合のよいように作っている。また、過去に拘りすぎて他者の言葉をちゃんと聞いているのか?また自分自身を守る為に、他者を犠牲にしてはいないか?を自分自身に問いたいと思います。
 他者を助けたい、悩んでいる人にサポートの手を差し伸べたい、この思いは、一番の自分勝手な感情なのかもしれないと感じます。助けて頂いてるのは自分自身なのに。です。」

 長文読ませていただきました。ありがとうございます。
 この文章は聞法の積み重ねの上での素直な気持ちを表現しているものと思いました。
 倫理的な側面が前面に出ていますが、大切なのは!何を鏡として自分を写し出しているのかです。
 唯識を学んでいただいて、具体的には他者が鏡になるということですね。
 例えば、他者を攻撃する、その気持ちはわかりますが、貴方の言われるように、他者は自分が作った影です。他者を見ているわけではありません。自分自身の心の影を見ているにすぎないのです。他者を攻撃しても、ブーメラン現象、自分が傷つくだけです。自傷行為ともいえます。
 自傷行為は、自分の都合が物差しになっています。なかなか見えてこないのですが、貴方の考え方の中にすり替えが伺えます。
それは、貴方自身がもうすでに気づいておられることかもしれません。私は、「あなた方のお陰で目が覚めました」という視線が必要だと思っています。それがほんとうの我愛ではないでしょうか。
又の投稿お待ちいたしております。南無阿弥陀仏

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