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掉挙と散乱が、染汚心の時には働いているのか、働いていないのかが説明されます。
「染汙心(ぜんましん)の時には掉と乱との力に由って、常に念々に解を易え縁を易えしむ応し、或は念等の力に依って制伏(せいぶく)せられたること、猿猴(えんこう)を繋げるが如し、暫時(ざんじ)に住せること有るが故に、掉と乱とは倶に染心に遍せり。」(『論』第六・三十一左)
(染汚心の時には、掉挙と散乱との力に由って、常に念々に解を変えせしめ、所縁を変えしめるのである。或は、念等が生起する染汚心では、念等の力に依って掉挙と散乱が制伏されていることは、あたかも猿猴を縛っているようなものであり、しばらく心が静かに住しているのである。しかし、掉挙と散乱は恒に染汚心に存在しているのであって無くなったわけではない。)
本科段は、掉挙と散乱は如何なる場合においても存在していることを説明します。
文段は三つに分けられます。
(1)染汙心(ぜんましん)の時には掉と乱との力に由って、常に念々に解を易え縁を易えしむ応し。
(2)或は念等の力に依って制伏(せいぶく)せられたること、猿猴(えんこう)を繋げるが如し暫時(ざんじ)に住せること有るが故に。
(3)掉と乱とは倶に染心に遍せり。
(1)の文は前段に於いて説明されました。(2)の文の意味は、染汚心の時であっても、あたかも、心が静かになっている場合はどうなのかについて説明します。この科段は厳しいです。私たちは、心が冷静で、落ちついている時は、何事においても平静を保っているように思うのでが、阿頼耶識を覆っている闇は深く、水面下で自己を貪り心は絶えず散乱し、見聞するすべての心・心所を自己の思うままに変容し、色づけして、自分の思いが通らないのは外界にその責があるという、責任転嫁をもって自己を充実させようとしている。まさに日常の在り方はこの通りなんです。
「私は悪く無い、私に落ち度はない」という立場から抜け出ないんですね。そこには周りが見えていないという大きな欠落があります。それを分別というんでしょうね。自分の物差しだけや!ここを教えられていかなくてはならないです。唯識の底を破った、真宗の醍醐味ですし、親鸞聖人のダイナミズムですね。でもね、護法さんは、そこをきっちりと押さえておいでになります。すごいです。
問は、染汚心であっても、念や定等が生起している時は、念や定の力によって、解が変わらず、所縁も変わらず、心は静かである(寂静ではない)。それならば、(心は掉挙も散乱もしていないから)掉挙も散乱も存在しないのではないのかという、当然の指摘ですね。親鸞聖人の御消息を伝える『恵信尼消息』の「殿の比叡の山に堂僧つとめておわしましけるが、・・・」という叡山での修行の中で、一分の愛執を読み切られたのでしょうか。唯識はこの辺のことを「念等が生起する染汚心では、念等の力によって掉挙も散乱が制伏されることは、あたかも猿猴を縛っているようなものであり、しばらく(暫時)静かな心が住するのである、と。従って、掉挙も散乱は存在しているのであって、無くなったわけではないと説いています。
二つの意味があるようですね。
麤と細です。掉挙も散乱も麤である場合。あらあらしく阿頼耶識を覆っている、これはなんとなく分かる気がします。しかし、心が平静を保っている時なんですが、その時も掉挙も散乱も微細に働いている、微細に働いているというのは、掉挙も散乱も用をみせずに阿頼耶識を覆っているというのでしょう。それはあたかも、喩ですが。猿が縄等で動きを制限されているようなものであるというわけです。
問題なのは、掉挙や散乱ということではなく、染汚心なんですね。染汚心が問われているわけです。(3)は自ずとその意味は知られます。
所依の転依が求められています。我執を依り所とするのか、法を依り所とするのか、その決断は「今」だというわけです。「この身今生において度せずんば、いずれの生においてかこの身を度せん」と。
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