唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 ・三善根について (1)

2013-06-23 19:13:53 | 心の構造について
第三能変 善の心所にもどります。『倶舎論』の考究は、ただいま熟考中ですので、今月は休ませていただきます。
三は、無貪・無瞋・無癡の三善根について
「無貪等とは、無瞋・癡を等ず。此の三を根と名くことは、善を生ずること勝れたるが故に、三不善根を近く対治するが故なり。」(『論』第六・三左)
 本頌(第十一頌第二句)に述べられている善の心所の三善根を釈します。
 「無貪等」とは、無瞋・無癡を等取している。この三つを根と名づけるのは、善を生じることが勝れているからである、又三不善根を近く対治するからである。
    三善根(能対治) → 三不善根(所対治)
    無貪 → 貪
    無瞋 → 瞋   } 別対治。或は近対治
    無癡 → 癡                           (ごんたいち)
「論。無貪等者至近對治故 述曰。下文有二。初總。後別。總中又二。初牒頌顯。後釋善根。頌中所云無貪等三根。等者等取無瞋・無癡。釋根名者。生善勝故。有何勝也。三不善根正相翻對。近別對治故。此遠總對治。即正見也。非別治故。然准此下文。三不善根。由三義故。一六識相應。二正煩惱攝。此二簡諸一切心所非不善根。三起惡勝故。正釋根義。其此三法正對翻彼名爲善根。今准此文。善根由二義。一三不善根近對治故。簡餘一切善心所等不名善根。非不善根近對治故。二生善勝故。正釋根義。餘論無此。如文可解。」(『述記』第六本下・十二左。大正43・436a)
 (「述して曰く。下の文に二有り。初に總・後に別なり。別の中に又二あり。初に頌を牒し顕し、後に善根を釈す。頌の中に云う所の無貪等の三根と云う等とは、無瞋無癡を等取す。根の名を釈するは善を生ずること勝れたるが故に。何の勝れたること有りや。三不善根に正しく相い翻對して近く別に對治するが故に。此れを遠く総て對治するは即ち正見なり。別に治するに非る故に。然るにこの下の文に准ずれば、三不善根は三義に由るが故に、一に六識と相応す。二に正しく煩悩に摂む。此の二は諸の一切の心所の不善根に非ざるを簡ぶなり。三に悪を起こすこと勝れたるが故に、正しく根の義を釈す。其れ此の三法は正しく彼に對翻せり。名けて善根と為す。
 今此の文に准ずるに、善根は二義に由る。一に三不善根を近對治するが故に、余の一切の善の心所等をして善根と名けざるに簡ぶ。不善根の近對治に非ざるが故に。二に善を生ずること勝れたるが故に、正しく根の義を釈す。余の論には此れ無し。文の如く解すべし。)
 「無貪等」と述べられているのは、「無貪等の三根と云う等とは、無瞋無癡を等取す」ということ。そして三つまとめて述べられているのは、二つの理由に由る。一つは「根の名を釈するは善を生ずること勝れたるが故に」という、この三つがいずれも善をよく生じる根としての性をもつということ、二つには「三不善根に正しく相い翻對して近く別に對治するが故に」ということ。三善根が時間的に隔たりがなく三不善根を対治するということを明らかにしています。
 

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