唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 散乱(4)掉挙と散乱の相違の問題点 (1)

2015-12-21 22:04:22 | 第三能変 随煩悩の心所
 

  掉挙と散乱の相違は「彼(掉挙)は解を易え令め、此(散乱)は縁を易え令む。」と説明されましたが、一刹那と多刹那に於いて解と所縁はどのように変化するのかが問われます。また、染汚心の場合はどうなのかという問題も論じられます。
 「問、五識等の如き一念の染心において、如何ぞ易えると説くや。」(『述記』)と発題をして『論』の所論が述べられます。
 (五識などは、一刹那という間に、どうして理解内容や認識対象をかえることが出来るのか?という問題提起です。
 「一刹那には解と縁とを易(か)うること無しと雖も、而も相続するに於ては易うる義有るが故に。」(『論』第六・三十一右)
 (一刹那においては解(理解すること)と所縁(認識対象)とが変わることが無いといっても、しかし多刹那に相続すという点から、解と所縁が変わるという意味がある。)
 「述して曰く、一念のうちに解と縁との二法に、倶に易える義は無しと雖も、而も多念に相続するにおいて、解と縁と易える義あるが故に。一刹那のうちに、この二有りと雖も、行相は知りがたし。故に相続を以て、その行相を顕す。もしただ一念ならば、穏なる故に説かず。」(『述記』第六末・八十七・右)
 前段の『述記』の所論を今一度振り返ってみますと、
 「述して曰く、下は論主の答え。掉挙は心を挙(こ)す。境は是れ一なりと雖も、倶生の心心所をして解が数転易せしむ。即ち一境において多解するなり。散乱の功は心をして縁を易え境を別なら令む。即ち一の心において多境を易えるなり。」(『述記』第六末・八十六左)
 掉挙の「解」はこちら側(能縁)の了解であり、「易」はかえしめる、変化させるという意味で、心を高ぶらせて、認識対象は一であっても、その理解内容は数々変えさせる働き(囂動)であるということなんですね。
 散乱は「所縁を易え令む」といっています。一つの心心所の認識対象を次々に変えていく作用を持つ心所であるということなんです。
 作用が全く違うわけですね。
 認識対象に対して、多くの理解を生ずるのが掉挙であり、心心所は一つだけれど、多くの認識対象をもつのが散乱であると、その相違点を説明していますが、五識等は、一刹那という短時間で、解や所縁を変えることが出来るのかという問題ですが、簡単にいいますと、一刹那には解と所縁とかわることは無い、しかし、多念相続することに於いて変わるという意味がある、というわけです。
 説明としては不自然ですが、『述記』に「行相知り難し」と。一刹那では変化は見られないが微細に変化して、多念に相続するにつれ、行相がはっきりとしてくるとということなのでしょう。一刹那の用(はたらき)はわかりませんね。わからないから執着するのでしょうか。そういう点からも、何故執着するのかが見てきます。

 本科段を学ぶ上で、(唯識論全般にわたってですが)、八識の倶有依(増上縁依)について十分理解をされる必要があると思います。FB上になりますが「唯識に自己を学ぶ」において八識の倶有依を学んでいます。そちらの方もお読みいただければと思います。
 

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