唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『自己に背くもの』 安田理深述 (6) 謗法と五逆

2011-09-18 13:02:18 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 唯除五逆誹謗正法と大経に出ている。それで観経には十悪五逆具諸不善も亦往生を得、とあるが、この二つをいかにするか。観経では五逆の罪人、それがこの念仏によって往生する、助けられるということが述べてある。ところが大経では唯除五逆と出ている。そこに矛盾がある。これは一体どうしたわけかと新たな問題を提起してある。それが四つの問題を挙げてある。なるほど大経を見てみると、ただ本願成就文の上にあるばかりでなく、第十八願の因位の本願にも唯除五逆誹謗正法といってある。これは一つの大きな問題である。実は曇鸞大師が提起された問題は論註だけで終わらず、善導大師にきてもこの問題が継承されておる。更にまた教行信証にくるとこれらお二人の解釈が併せられている。ここに大経では五逆罪と謗法罪とを合わせてそれを犯したものは助からぬという。観経では五逆罪を犯したものは助かるといってあるが、謗法罪を犯したもののみ助かるということが出ていない。親鸞聖人はこのところに涅槃経を引いて、そこに出ている一闡提というものを出していられる。一闡提と謗法罪と五逆罪とかとこういうぐあいに出ている。これは親鸞聖人が涅槃経を以て広く難治の三機ということをいっておられる。ここに唯除の機は曇鸞・善導・親鸞と次第する歴史的な問題が提出されたのである。実にこの十方衆生と呼びかけた本願がそこに五逆罪と謗法罪とを除くといい、一切衆生悉有仏性を説いた涅槃経が闡提を語らねばならなかったというところに問題がひそんでいる。一応闡提ということは謗法罪に属すると思えるが、五逆罪というのは世間的倫理的罪悪というものであろう。それに対して謗法はそれを深く徹底すれば、正法を否定する、仏道に反逆する。ということを更に押せば本願の疑惑ということになる。それに対し闡提というものはどういったらよいか。五逆罪というときには何か縁に触れて犯したということになるが、闡提というときには全く宗教心を起こすという可能性が全然失われておる。涅槃経を読めば、一度焼けた種子は再び芽を出すことはないだろう。一遍死ねば再び生きかえらぬ。全く絶望的危機というものを意味するものと思う。謗法というとそこにまだ意識的に反抗するというものがあるが、闡提となると意識的に仏法を否定するというのではなく、無意識的に仏法を否定しているという状態でないかと思う。こういうことを通して親鸞は悪人正機の問題を明らかにしている。その悪人正機に一番先に触れたのが曇鸞大師だと思う。これは大体からいえば、機の問題ということになる。大体論註は法というものが中心となっている。浄土論自体が法の問題を主題としている。機の問題も大切であるが、法の真実を明らかにするのが論註の立場である。その法の問題が機というものによって端緒がつけられた。歴史を通して明らかになる問題に端緒がつけられた。兎に角ここに始めて機の問題についての端緒があるということでないかと思う。それ故親鸞の教行信証を見てみると、これから以後全部の文を引用しておられる。読んでみよう。

 (『論の註』に曰わく、)問うて曰わく、『無量寿経』に言わく、「往生を願ぜん者みな往生を得しむ。唯五逆と誹謗正法とを除く」と。『観無量寿経』に、「五逆・十悪もろもろの不善を具せるもの、また往生を得」と言えり。この二経云何が会せんや。答えて曰わく、一経には二種の重罪を具するをもってなり。一つには五逆、二つには誹謗正法なり。この二種の罪をもってのゆえに、このゆえに往生を得ず。一経はただ、十悪・五逆等の罪を作ると言うて、「正法を誹謗す」と言わず。正法を謗せざるをもってのゆえに、このゆえに生を得しむ、と。 問曰・・・・・・・・答曰・・・・・・・・(「真聖」p272・信文類)

 そこに二種の経典の問題がある。大経には五逆罪と謗法罪との二種の重罪を具する故に唯除くという。観経では五逆罪を犯したものもまた十念念仏によって助けられる。五逆罪が許されるのは謗法罪がないからであると。ここに一応は謗法罪を具するか具しないかによって解釈される。がしかしそれだけでははっきりしないものが残されている。それから次第に歩を進めておられる。観経には謗法罪がないから五逆罪は許されてある。それならばたとえ五逆罪を犯しても謗法罪がなければ許すというが、それならばその逆はどうであるかと、謗法は犯しても五逆罪は犯さなかったならばどうであるかと。そう尋ねてこないと五逆罪を具する具さないの量的な問題に終わってしまう。そこでまだ質的な問題が残されている。故に謗法罪だけ犯したのみでも許されないのかと問いを進めている。しかしそれはもうだめである。謗法罪を犯せばそれだけでもう絶対不可能だという。ここに罪は量の問題から質の問題に転じている。観経では誹謗正法がないから許される。ここに問題は謗法があるかないあkというところに救われるか救われないかの運命が決する。

 『経』(大品般若経信毀品意)に言わく、「五逆の罪人、阿鼻大地獄の中に堕して、具に一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は、阿鼻大地獄の中に堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄の中に至る。かくのごとく展転して、百千の阿鼻大地獄を径。」仏出ずることを得る時節を記したまわず、誹謗正法の罪極重なるをもってのゆえなり。(真聖p273・信文類)

 ここに五逆罪を犯したものは一劫の重罪を受けると限っているが、謗法罪を犯したものは永遠に阿鼻地獄を反覆展転し、遂にその窮まりのないことを教証してある。即ち経典を以て証明してある。ここに出離の縁あることなしという機法二種の言葉を思う。更に機の自覚としての三願転入の問題がある。

                         次回は 「救いの断絶」 です。


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