唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (6) 我慢と我愛について

2011-09-20 20:57:27 | 心の構造について

 我癡とは無明である。そして我見とは我執であると述べられてありました。第八阿頼耶識の見分を妄計して我とするのは、無我の理に迷っている無明が横たわっているからですね。親鸞聖人は「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」と。南無阿弥陀仏は我癡という無明を破ってくる働きがあるのだと教えられています。私たちの上に具体的に表れてくる我執は本願に背いている姿ですね。本願に背いているのは仏智疑惑です。仏の智慧より我の心のほうが偉くて仏をも裁く心をもっているのですね。ですから元は無明です。「此には無明を以て本と為せり」と。無明が因となり、我見・我慢・我愛は果となって現れてくるのであると説かれています。その元の無明を破る働きが念仏であると言うことですね。具体的には信心です。信心において無明を破る智慧をいただくのですね。智慧をいただいてみれば、迷妄多き、というより、迷妄しかない娑婆といわれる世界も生きうるに値する世界なのですね。もう一つ気になる出来事がありました。それは脱原発の集会です。何故脱原発なのかという議論は有無の見だと思うのです。生命の危機を晒す原発はもういらないという主張と、電気需要を多量に必要とする産業界からの、より安全な原発を推進するという主張がぶつかり合います。私にとって何が利益をもたらすのかという、私の立場から賛成か反対かを主張しているわけです。原発のある環境を推進するのか、それとも原発のない環境を推進するのか。環境を変えることにおいて私たちの生活環境をより安全により快適に暮らせるようにしようという議論が、原発推進か、それとも脱原発かということになります。しかしですね。この議論には、人間そのものを問う姿勢を伺うことが出来ませんね。快適な生活を要求する為に私たちが原発を推進してきたのです。「豊かな生活」を目指して自然を破壊してきたのも私たちです。その為に生態系が破壊され、地球全体が温暖化になり、CO2によってオゾン層が破壊されて、私たちの取り巻く生活環境は著しく悪化しているのです。これも私たちがもたらして来たものです。「人間そのものを問う」・「私を問う」という姿勢が微塵もないことから起こってきた現況ですね。ですから脱原発か、それとも原発依存かの議論は共に我見です。無明より起こってくる見解ですね。私たち一人一人は有情なのです。人間だけが尊いのではないのですね。命有るともがらの中にいながら、私たち一人一人が傲慢になっているのではないでしょうかね。人間だけ、いや私だけが偉いのだと。「自己とは何ぞや」、今こそ問う時ではないでしょうか。少し脱線しましたが、本論に戻ります。

          ―   我慢と我愛の名について説明される   ―

 「我慢とは、謂く踞傲(こごう)なるぞ、所執の我を恃(たの)みて、心をして高挙(こうこ)なら令む、故に我慢と名づく。我愛とは、謂く我貪ぞ、所執の我の於に深く耽著(たんじゃく)を生ず、故に我愛と名づく。」(『論』第四・二十九左)

  •  踞傲(こごう) - おごりたかぶること。傲慢のこと。
  •  恃(じ) - たよること。たのむこと。おごること。
  •  高挙(こうこ) - 自己を他人と比べて勝れていると誇ること。「慢とは、劣に於て己は勝なりと謂い、等に於て己は等なりと謂いて心を高挙せしむるをいう。」
  •  耽著(たんじゃく) - 深く執着すること。 

 (我慢とは、つまり踞傲(こごう)おごりたかぶることである。所執の我を恃んで心を高挙させるので我慢と名づけるのである。我愛とはつまり我貪のことであり、所執の我に対して深く執着を生ずるので我愛と名づけられるのである。)

 「述して曰く、此の二名を釈することは亦後の巻(『述記』第六末)の如し。踞とは倚恃(いじ)ぞ。傲とは傲憚ぞ。其の我愛は第十の『瑜伽』と『対法』第一と第六と『顕揚』第一と等に説くが如し。我見とは並びに大論(『瑜伽』)五十五と五十八と等に説くが如し。」(『述記』第五本・三十四右)

 倚恃(いじ) - 倚(い)はよりかかる。自分が一番偉くて相手を見下しどっしりと座り込んで構えていること。

 我慢とは己をたのんで他よりも勝れていると誇ること(恃己の慢)を性としているのです。相手を見下す気持ちが慢の正体です。踞はうずくまるという字です。腰をおろしてすわるという意と足を付し、すわりこむの意味を表すのです。自分が一番偉いのです。自分が一番偉くて相手を見下しどっしりと座り込んで構えているのですね。七慢の中の我慢です。「我蘊に於て我慢を起こす、自ら持して高挙す」と。第七識相応の慢で、傲慢で心を高ぶらせる煩悩です。我見の上に我をたのみにして心をおごり高ぶらせるのです。

 明日は我愛について考えます。

 


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