唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 別境 五受分別門 (3) 護法正義 

2010-10-13 20:51:20 | 心の構造について
   
 
 
第三能変 別境 五受分別門 護法正義を述べる(3)
第六意識には、欲と苦受が相応することを述べる
「純受苦処には解脱せんと希求す。意に苦根有りということは、前にすでに説くが故に」(『論』第五・三十四左)
 
 「述曰。此れは苦と倶なることを証す。また地獄の全と鬼蓄の少分とは純受苦処なり。前にすでに説けるが如し。意に苦受あり。また解脱せんことを希求す。解脱とは彼の苦を解脱するなり。故に欲は苦と倶なり」(『述記』第六本上二十八右)
 
 地獄のすべてと、鬼蓄の少分とを純受苦処というのですが、この純受苦処に於いては、解脱(ここでいう解脱は悟りを指すのではなく、逃れる、離れるという意味)しようと望む。よって、欲は苦受と倶に働くのである。このことは既に述べた通りである。(受倶門の第四門・逼迫受についての護法の説。7月4日の項参照してください。「人天の中には、恒に名づけて憂と為す。尤重に非ざるが故に。傍生と鬼界とのをば、憂とも名づけ、苦とも名づく、雑受と純受と軽重有るが故に」の文
 「所楽の境の於に希望する」そして「勤が依」であるのが欲の心所です。欲は善・悪にも通ずるのですが、正勤即ち、正精進の依処なのですね。善への希求が欲の心所なのです。苦から逃れたいという初動のところに、善への欲求が働いているのです。その欲求は如来の欲生心として私の上に成就していたのです。その意味が第六意識に於いて、欲は苦受と相応すると説かれているわけです。
 参考として
 「諸の適悦(じゃくえつ)受の五識と相応するを恒に名づけて楽と為す。意識と相応する、若し欲界と初二静慮の近分とに在らば、喜と名づく。但心を悦しむる故に、若し初二静慮の根本に在らば、楽とも名づけ、喜とも名づく。身心を悦ばしむる故に。若し第三静慮の近分と根本とに在らば、楽とのみ名づく。安静にも尤重にも無分別にもある故に。諸の逼迫受の五識と相応するをば、恒に名づけて苦となして、意識と倶なるをば、・・・二に通ず。人・天の中には恒に名づけて憂と為す。尤重に非ざるが故に。傍生と鬼界とのをば名づけて憂とも名づけ、苦とも名づく。雑受と純受と軽重有るが故に。捺落迦の中をば唯だ名づけて苦とのみ為す。純受にして尤重なり、無分別の故に」(『論』第五二十三右~二十三左・新導本p219)
              逼迫受
 前五識相応は苦受
 第六意識相応の人・天は憂受
           鬼・畜は苦受と憂受
           地獄は苦受
              
              適悦受
 前五識相応は楽受
 第六意識相応の欲界・初静慮近分は喜受
           初二静慮根本は楽受と喜受
           第三静慮近分・根本は楽受
 非二受  ー  三界 - 捨受
「欲については所楽の境において希望を起すのだから、憂や苦に起こるはずがないというが、無上法というようなもの、解脱を求めること、-それは確かに所楽の境であるが、-無上菩提を求めて仏道を歩む場合にいつもでもニコニコ笑っているわけではない。悩みが伴っている。憂慼(うせき)するといっている。憂である。希望の境に憂は起こらぬというが憂は起こる。好きで求めるということはない。仏道は闘いである。(『三十頌聴記』(安田理深選集巻三・p324)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿