唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩  不正知 (5)不正知の体について

2015-12-30 17:37:56 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 不正知の体について、三師の異説が述べられます。慧の一分説。癡の一分説で、『論』の立場、即ち護法の正義は癡と慧との両方を体とする、倶一分説を採ります。
 
 安田先生の講義から、
 「最後に、不正知とは、知を失わすというのではなく、知るのであるが、間違って知るのである。謬解(びゅうげ。誤って理解すること)である。これは体は、別境の慧の一分(いちぶん)であるという。慧が間違った場合であるという。しかし、癡の一分という考え方もあるのである。しかし『成唯識論』は、癡と慧との両方を体とするといっている。
 謬は迷と区別される。知がないのは、まったく迷っていることである。いわゆる真理を暗中模索している場合は、迷である。謬は、真理には触れる。真理をとらえたのであるが、間違ってとらえるのである。間違ってとらえることが謬である。癡は無明といわれている。明は知であるから、知がないのが無明、愚癡である。並べてみれば、愚癡というものの上に謬解ということが立てられるのである。別境の慧と癡が結合して起こると、その上に謬解が起こるのである。解があるのは慧が作用していることであり、それが間違ってくるのは癡が相応するからである、というのである。」(『選集』第三巻p484)

 第一師の説。
 「有義は、不正知は慧の一分に摂めらる、是れ煩悩と相応する慧と説けるが故に。」(『論』第六・三十一左)
 (第一師の主張は、不正知は慧の一分であるという。何故なら(『雑集論』巻第一)に「不正知は煩悩と相応する慧である」と説かれているからである。)
 前回『雑集論』を不正知の教証として挙げました。
 「不正知とは、煩悩と相応する慧を体と為し此の慧に由るが故に、不正知の身と語と心との行を起し、毀犯(きほん)の所依たるを業と為す。」
 不正知とは、実法ではなく、別境の慧の一分として立てられた仮法であると主張し、自説の正当性を証明するために『雑集論』の所論を引用してきます。
 「述して曰く、これ第一師なり。対法に、是れ諸の煩悩と相応する慧と説けるが故に。」(『述記』第六末・八十八右)と。

 第二師の説。
 「有義は、不正知は癡の一分に摂めらる、瑜伽に、此は是れ癡が分(ぶん)と説けるが故に。知ること正(しょう)ならざら令むるを不正知と名く。」(『論』第六・三十一左)
 (第二師の主張は、不正知は癡の一分であるという。何故なら『瑜伽論』(巻第五十五)に「これは癡の一分である」と説かれているからであり、知ることを正しくさせないことを不正知と名づけるのである。)
 『瑜伽論』(巻第五十五)の記述は、
 「復た次に、随煩悩は幾ばくか世俗有、幾ばくか実物有なるや」という問いが立てられ、忘念・散乱・悪慧(不正知)は是れ癡が分なるが故に一切皆な是れ世俗有なり、・・・」
第一師の説と第二師の説が相違するということではなく、『述記』は互相会文(ごそうえもん)といい、「此の第一第二師互に相い文を会するなり。皆是れ等流なり。と釈しています。つまり、第一師の引く文を第二師が会通し、第二師の引く文を第一師が会通し、「知ることを正しくさせないこと」が不正知であると説明しています。
 第二師からの会通の意味は、「知ることを正しくさせないこと」は慧が正しく働いていないからであるとする第一師の主張は、慧が正しく働かないのは癡であり、癡こそが不正知の体であると会通しているのです。
 また、第一師からの会通の意味は、『瑜伽論』に不正知が癡の一分と説かれているのは、不正知が癡と相応する慧であることを述べているもので、不正知が煩悩の癡の一分という意味で説かれているのではないと会通しているのです。これに対して護法は主張します。
 護法正義は明日読みます。

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