唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩  不正知 (4) 教証から

2015-12-29 21:36:46 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 『阿毘達磨雑集論』(大正31)
の記述から会通される護法の主張を伺います。
 ・ 『阿毘達磨雑集論』は無著菩薩の『大乗阿毘達磨集論』と、その釈である獅子覚の釈論を安慧がこの二論をまとめたものが糅訳として世に流布したものである。
 大正31・699bに、不正知の説明がされています。
 「不正知とは、煩悩と相応する慧を体と為し此の慧に由るが故に、不正知の身と語と心との行を起し、毀犯(きほん)の所依たるを業と為す。」(『本論』)
  「不正知の身と語と心との行とは、謂く往来等の事に於て正しく観察(かんざつ)せず、応作(おうさ)と不応作とを了知せざるを以ての故に毀犯する所多きを云う。」(『釈論』)
 ・ 応作(おうさ) - なすべきこと。
 獅子覚の釈論から、不正知の身口意の三業とは、つまり往来等の事(物事の道理)に対して正しく観察せず、なすべきことと、なしてはいけないことを正しく判断しない為に罪を犯す(戒を犯す)ことが多いのである。と教えられます。
 往来等の事を物事の理と解釈しましたが、犯戒するというところから、仏陀の定められた戒律を正しく理解せず、自分の行う行為が正しいのか、正しくないことを誤って理解している為に、三業に悪業を行い、戒を犯すことになるということになりますね。
 この『雑集論』の記述は、『成唯識論』不正知の所論と同じことを述べています。
 『論』は「不正知とは、認識対象に対し、誤って理解することを以て本質的な働きとし、よく正知を妨害して戒を犯すことを以て、具体的な働きとする心所である。つまり、不正知の者は戒を犯すことが多いからである、と述べているところからも知られます。
 「所観の境に於て」、観察すべきところの対象に於いて「謬解」する。誤った理解をする、誤った理解をするとどうなるのか、厳しですね。「正知を障えて毀犯する」、つまり、正しい理解を妨げるということが起こってくる、それが不正知だと。
 そしてこの不正知は何によって生起するのかという問いに、三つの説があることが明らかにされます。『雑集論』の所論と『瑜伽論』の所論と『論』の所論の相違について会通し、「倶の一分に摂む」が護法の正義になることが示されます。
 「誤った理解」とは何をいうのか、問題ですね。考えてみて下さい。 (つづく)
  
 
 

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