唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (90) ・ 倶有依 (66) 護法の正義を述べる、(20)

2011-04-30 18:10:29 | 増上縁依(倶有依)

          ー 第七識の倶有依について ー

 初めに第七識の倶有依を挙げ、次に証を挙げる。

 「第七意識の倶有所依は、但一種有り、謂く第八ぞ、蔵識若し無きときには、定んで転ぜざるが故に。』(『論』第四・二十左)

(第七識の倶有依はただ一種である。つまり第八識である、若し蔵識(第八識)が存在しない時には、第七識は必ず活動しないからである。)

 第七識の倶有依は第八識のみであるというのが護法の説ですね。『唯識論聞書』(光胤)には「光胤申云。第八爲第七カ根本依之外ニ不共依ノ義用アル歟ノ事モ。同シ沙汰也。但聊染淨依ヨリハ別ノ義用アリトモ覺エタリ。第七八識既恒倶轉之邊ハ。根本依之外ノ事也。其故ハ根本依トナル事ハ。間斷識體ノタメニモ。根本依トハナル也。故ニ能所恒轉ハ。根本依之外歟」(大正66・715c20~25)と述べられています。第八識は第七識に対しては不共依である。第八識と第七識は間断することなく恒に倶転する識であり、能依・所依が間断することなく恒に倶転する第八識と第七識の関係では、互いを不共依とする。第八識は諸識に対して根本依であるけれども、根本依という場合には、間断がある識に対して言うものであり、第七識は間断がなく第八識と倶に活動することから不共依という関係になる、と。

 「第七意識」と云うことは『瑜伽論』巻第六十三に「一には阿頼耶識、二には転識なり、阿頼耶識は是れ所依なり、転識は是れ能依なり。此の転識に復七種あり、所謂る眼識乃至意識なり」と説かれていることによります。また、第八識が若し存在しない時には第七識も亦存在しないと説かれている。『瑜伽論』巻第五十一に「阿頼耶識有るに由るが故に末那識あることを得、」と。

 次に証を引く。

 「伽陀に説けるが如し、 阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り、 心と及び意とに依止して、 余の転識生ずることを得という。」(『論』第四・二十一右)

 (伽陀(『入楞伽経』第九巻・大正16・571c20「依止阿梨耶 能轉生意識 依止依心意 能生於轉識」の取意)に説かれている通りである。「阿頼耶識を依とすることに於いて、末那識は活動する。心と意とに依止して、他の転識は生じる。)

 『入楞伽経』第九巻・総品の中の頌に「阿梨耶 に依止して能く転じて意識を生ず、心に依る意に依止して能く転識を生ずと。」と語られているのですが、『論』はこの『頌』の要を述べています。そしてこの文が第七識の倶有依は第八識であることの証拠であると示しているのです。

 「述して曰く、即ち『楞伽経』第九巻の総品の中の頌なり。旧偈には阿梨耶 に依止して能く転じて意識を生ず、心に依る意に依止して、能く転識を生ずと云えり。稍此と別なり。此れに准ずれば前の依において好(よ)き証と為すに足れり。今の文は解すべし。」(『述記』九十五左)

 「此れに准ずれば前の依において好(よ)き証と為すに足れり。今の文は解すべし。」ということは、この『論』の文章は『頌』の前半と後半に分けて第七識の倶有依と前五識の倶有依と第六識の倶有依を示す証拠になる、と理解すべきである、と述べています。前半は「阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り、」という部分ですね、第七識の倶有依は第八識であることを示し、後半の「心と及び意とに依止して、 余の転識生ずることを得」という部分は、第七識と第八識を倶有依として前五識及び第六識は活動する、という証拠を示しているということになります。

              ―  雑感  ―

 護法菩薩の倶有依についての所論を学んでいるわけですが、ここまでのところを少し整理をしてみます。倶有依は依と区別され、倶有依というからには、決定の義・有境の義・為主の義・取自所縁の義という四義を備えていなければならないといい、これらの四義を備えているのが、内の六処である五根と第六識・第七識・第八識の意根なのですね。

 前五識の倶有依は五色根と第六識と第七識と第八識との識です。『瑜伽論』巻第一に「何等をか五識身と為すや、所謂眼識・耳識・鼻識・舌識・身識なり、云何が眼識の自性なるや、謂く眼に依って色を了別するなり。彼(眼識)の所依とは三有り、倶有依は謂く眼根なり、等無間依は、謂く意根なり、種子依は謂く即ち此れ一切種子を執受する所依にして、異熟に摂めらるる阿頼耶識なり。」との記述があります。五識身は五つの感覚ですね。五識に対して眼覚乃至触覚です。根(五根と意根)が所依であり、識(前五識・第六識・第七識・第八識)は能依になり、同時に存在するので倶有依となるのです。五識身といわれますように、先ず身をもっているということが大前提になります。身をもって感覚器官が働くのです。前五識が働くのは前五識の力ではないですね。第六意識(五倶の意識)が前五識に働きかけて物事を判断したり思考したりするわけです。五感覚器官と倶に働く意識に依って判断思考が行われるのです。そしてその深層に第七末那識が働いているのです。恒審思量といわれる潜在的な利己性が潜んで表層の意識を支えているといわれます。そしてこれらすべての根本に第八阿頼耶識があって、すべての経験を蓄えているのですね。このような重層的な構造をもって前五識は動いているわけです。前五識は身において支えられていますが、その働きは心・心所に依るわけです。所依の第四の条件に「心・心所をして自の所縁を取らしむ」と明らかにされ、所依の条件として、能依である心・心所をして自の所縁を取らしむるということです。

 前五識は、五根と第六識・第七識・第八識を倶有依とし、第六識は第七識と第八識を倶有依とし、第七識は第八識を、第八識は第七識を倶有依とする、と。第七識と第八識の倶有依が人間として非常に大切なことを教えています。「第七識の倶有所依は、但一種のみ有り。謂く第八識なり。蔵識若し無き時は定めて転ぜざるが故に」と説かれ、また、「阿頼耶識の倶有所依も、亦但一種のみなり。謂く第七識なり。彼の識若し無き時には定めて転ぜざるが故に。」と説かれ、深層意識の中で利己性に染汚された識が根本識に蓄積され、染汚されたままの識が表層の意識に伴って前五識が働いてくるのですね。これが迷いの構造になるわけですが、この迷いの構造を知らしめる働きが、法蔵願心ですね。現実的には苦悩を縁とするということでしょうね。苦悩を縁として苦悩なき世界を願う、その願いは利己性からは出てこないでしょう。利己性が利己性を知り利己性を内面から内破る働きが本来自身の中に備わっているのでしょうか。利己性と倶に如来の願心が恒に働いているわけでしょう。いうなれば、阿頼耶識と一体になっている働きではないでしょうかね。迷いの識は迷いの識のままで働いているわけではないでしょう。迷いを知らしめることを通して如来は如来の願心を表現しているのではないでしょうか。具体的には法蔵菩薩の働きであり、法性としては南無阿弥陀仏の御心でありましょう。こんなことを思う事です。


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