唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (96) ・ 倶有依 (72) 護法の正義を述べる、(26)

2011-05-07 22:32:32 | 増上縁依(倶有依)

 『樞要』巻下本・十八左

  「識種は現に自の境を取る能はず。依の義有るべしとは、疏の中に二の義有り。一に云く。前の師は識種は本識に依ると許す。本識は三の義を具す。種が與に所依と為るべし。種の果は現に自境を取ること能はず。果も自の所縁無きが故に。異熟識は彼が與に依と為るとも所依には非ずなり。故に種は依有りと説くれども有所依と説かず。又解す。此の解は識種は現行の與に所依と為すこと能はざれども、分位に差別の決定と為主とは有るべし。有境は無き故に。識の依の義は有るべしといえども、而も識が所依には非ず。上来の分位差別と云う。即ち染浄依なり。別與を以て名と為して分位差別と名づく。」

 第三師(浄月等)の説では、種子の倶有依について「若し識の種子ならば定んで一の依有り、異熟識ぞ、初に熏習する位には、亦能熏にも依る。」と主張していました。種子の第八識に対しては必ず現行第八識が倶有依となるということ。第八識の種子(住依ー種子を保持するという意味において種子を住する依として現行第八識を所依とするという。)この浄つは第八識に任持されるので第八識の現行を以て定依とし、能熏の七転識は生・長の依となるから七転識を以て不定依とするというのが浄月等の主張です。この浄月等の説を論破するのがこの科段であるということです。「現行八識の種子は現に自の境を取ることができない」ということ、「現行八識の種子は現行八識に自の境を取らせることができない」ということを以て、現行八識は種子に対しての依ではるが所依ではない、又種子は現行八識に対しての依ではあるが所依ではない、と論破しています。

「第二の段に心所を解す。」

    ー 心所の倶有依を説明する。 ー

 「心所の所依をば識に随って説くべし。復各に自相応する心を加えたり。」(『論』第四本・二十一左)

 (心所の所依は識に随って説かれるべきである。また、各々(各心所の所依)に自らの相応する心識をも所依の一つとして加えるのである。)

 「心所の法は識に随って応に説くべし。始めには但四のみ有り。乃至一有り。復各自と相応の心即相応の依を加えたり。初の五識の心所には五の所依有り。乃至第八の心所には二の所依有り。此れより前の三の師も皆自所立の識に  (つづく)

 日付が変わりまして5月8日、午前1時45分になります。私事ながら昨日から父の体調が悪く入院をしていました。腎臓に疾患があり、心臓に送り込む血管がつまってしまっていて、スムーズに酸素を送り込むことが出来ない状態でした。でも少し様子をみて回復を待ちましょうという医師の判断でしたが、高齢でもあり急変したのですね。ちょうど今日の「心所の倶有依について」を考えている最中に病院から「おじいさんの体調が急変しました。」という電話が入りました。医師からの説明では酸素が十分に心臓に届いていない状態がつづいています。酸素を送り込んでいるのですが数値があがらないのです、と。その数値が90ないといけないそうですが、最大でも88までしか上がらず、本人も一生懸命呼吸をしているのですが、このままだと非常に危険です、数値が60を切るようなことがあれば、危篤状態になります。しかし今はなんともいえないので、一旦自宅待機をしていてください、もしもの時には電話をいれます、しかしその時は覚悟をきめてきてください、と。寝付かれない夜を迎えていますが、覚悟をきめて状態を見守っています。「朝に紅顔あって夕べには白骨となれる身なり」とは、どこかにある話ではなく私自身の身の上の事実であることを父が今、身をもって教えていてくださいます。


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