種子識を説明する。(種子と現行八識の倶有依の問題)
「識種不能現取自境。可有依義而無所依」(『論』第四・二十一左)
『述記』にこの文は二義を以て解釈すると述べられ、伝統的に『述記』の理解に基づいて原漢文を二通りの読み方をし、二つの問題について説明がされています。『述記』によれば、浄月等が種子の第八識の倶有依説によれば、種子も生依・長依・住依の三義をそなえるから有所依であろうと問うことに対して答えていると説明しています。
「第三師の云く、諸識の種子も応に有所依なるべし。七・八の現行識、三の義を具せるを以てなり。」(『述記』)という問いです。この答えがつぎの二義になります。
(1) 現行依の義から答える。
「識種は、現に自の境を取ること能わざれば、依の義は有る可けれど、而も所依たること無し。」
(現行八識と種子との関係において、現行八識の種子は現に自らの境を取ることができないので、現行八識は種子に対しての依ではあるが倶有依ではない。)
(2) 種子依の義から答える。
「識種は、現に自の境を取らしむること能わざれば、依の義は有る可けれど、而も所依たること無し。」
(種子と現行八識との関係において、現行八識の種子は現行八識に自らの境を取らせることができないので、種子は現行八識に対しての依では有るが、倶有依ではない。)
(1)の問題について
「其の種子識は現在に自の親しき現行の所縁の境を縁ずること能わず。前に宗を立てて、心・心所に自の所縁を取らしむるいい是れ所依の義なりと言う。種は心・心所に非ざるが故に。一の義を欠くるに由るが故に有依なる可けれども、有所依に摂むるには非ず。」(『述記』)
識種(種子と種子識)は現前の所縁の境を認識しないということ。種子が現前の所縁の境を認識しないということは、このとき、現行八識は所依であり、種子は能依になり、現行八識は種子に所縁の境を認識させることが出来ないのである。(一の義を欠く)ということは倶有依の四義の内の第四義である取自所縁の義を欠くので依ではあるけれども、倶有依ではないという。
(2)の問題について
種子が現行八識に対する倶有依となるのかという問題について答えています。
「此の文は現行は種を以て所依とせず。種子は有境の義を欠くことを以て種子は現が所依には非ず。」(『述記』)
このとき、現行八識は能依であり、種子は所依となる。八識の種子は現行八識の自の境を認識させることが出来ないということ。種子は自らが認識する境を持たないので、四義の内の有境の義を欠くことになり、種子は現行八識の依ではあるが、所縁の境を認識することが出来ない為に、種子は現行八識の倶有依ではないという。
「此れが中に二の解は、一には現行の第八は種が所依に非ずと簡び、二には種子は現が所依に非ずと簡ぶ。」(『述記』)
尚、この二つの問題についての背景は『樞要』(巻下本・十八左)に述べられています。次回に述べてみます。
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