唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第九 起滅門  起滅の分位 ・ 五位無心

2010-11-06 19:53:51 | 心の構造について

Dsc_00131  名勝 渉成園 - 枳殻邸 - 印月池と臥龍堂(南大島) ・ 侵雪橋を望む。

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 第三能変 第九 起滅門 ・ 第三 起滅の分位

             ―  無想天 (2)  ―

 「故に六転識いい、彼に於いて皆断ず」(『論』第七・十左)

  (意訳) (第二の識を滅する多少が述べられます。)以上の理由によって、六転識は、無想天において皆断ずるのである。

 「述曰。これは即ち第二に六識を滅するなり。七八は微細にして彼は知ること能わず。故に滅せざるなり。総じて六というと雖も、遠く三と近の一となり」(『述記』第七本・五十四左)

 「疏に「雖総言六遠三近」とは、二釈あり。一に云く、当地を近と名づけ、異地を遠と名く。眼耳鼻の三は下地の法なるが故に。二に云く、先滅を遠と名づけ後滅を近と名づく。彼の天に生じては四識生ぜざること前後有るに由るが故に。前の釈を正と為す。本意は彼の所滅の識は皆当地に非ずと顕して遠近の言を置くなり」(『演秘』第六本・三右)

 五位無心位ということが、意識の大きな特徴ですね。五位無心位において意識は起こらないから、前六識は起こらないと説かれています。『論』は五位無心について第七・十左から第七末まで詳細に解釈しています。このことについては、安田理深先生が「第七・第八の論証の理証の根拠として、五位無心位が重要になってくる」と教えられています。(『選集』第四・p15)また、大田久紀師は「利己的自己について」のなかで、「第六意識が働かぬ時にも、或は、第六意識の我愛が超克された時にも、なお且つ衆生を動かしつづける自我愛を自覚せざるをえなかったのである。それが<恒>ということばで表される。<恒>は、第六意識が有間断、つまり非恒であるのと、善悪等の三性が常に変わってゆくのに対して第七識がそうでないのを表わす。・・・従って、第六意識が断えた時にはそこでは我執・我愛は、識体と共に働かなくなる。つまり我執のない状態になる。とすると諸仏には我執・我愛はないから、第六意識が断えて我執のない状態は、そのまま仏だという論理が成立する。第六意識の断える時・・・(五位無心)・・・この五の時には、・・・それをその儘成仏とする思いちがいもありうるかもしれないが、極睡眠とか、深酒や病気で意識をうしなっているのを、そのまま仏とはいかにしても認め難い。・・・間断の底に無間断で常恒の凡夫性、つまり第七末那識を捉える」と述べられています。五位無心が第七末那識の存在の証明になるのですね。第七末那識の存在の証明が五位無心時において有情が仏に成るのではなく、有情は有情であることの証明にもなるわけです。五位無心時において第六意識は働かないとしても“生きている”わけです。その生を成り立たしめているのが第七・八の識なのです。

 無想定を修して無想果を得るということですから、無想定を修する時は有想の状態ですね。「この身今生において度せん」という菩提心が聞法の機縁になって、日常生活がそのまま仏道の道場となるのでしょう。信心を獲得するということは、異熟果ですね。迷いの生存を明らかにし、迷いしかない人生を引きうけていける力をいただく、そこがところがのまま、転じていける世界がひらかれてくるのでしょう。「悪を転じて、徳と成す正智」の世界です。「穢を捨て浄を欣」う心根が「行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、悪重く障多きもの」という目覚めと一体に働くのです。法蔵菩薩の願心と衆生の願心が一つになったところが阿頼耶識なのでしょうね。

 横道にそれましたが、求めた結果が誤解であっても無想天に生じて六識が滅する、迷いの意識である六識がおこらないというのです。ここに私たちの生存を明らかにする根拠が示されてくるのですね。『論』における、無想天についての記述が示されます。

 「有義は彼の天には常に六識無し。聖教に彼こには転識無しと説けるが故に」(『論』第七・十左)

 (意訳) (第三の、一期に於いて有心・無心ということを争う、三の解あり。ここは第一師の説を述べる)無想天には常に六識は存在しない。「聖教に彼には転識なしと説けるが故に」とは、『顕揚論』の第一(正蔵31・484・b-09)に云く、無想天というは謂わく先に此の間に於て無想定を得て、此れに由りて後に無想有情の天処に生じて、恒に現行せざる諸の心心法滅する性なりと云えり。又『五蘊論』(正蔵31・849・c-09)にも亦恒に現行せざる心心法滅すと云えり。『対法』(巻第二・正蔵31・700・b-12・無想定の釈文)も亦同じ」(『演秘』(第六本・三右7)

 「無想天者。謂先於此間得無想定。由此後生無想有情天處。不恒現行心心法滅性」(『顕揚聖教論』巻第一)

 「不恒現行心心法滅爲性」(『大乗五蘊論』巻一)

 「無想異熟者。謂已生無想有情天。於不恒行心心法滅」(『大乗阿毘達磨雑集論』巻二)

 以上が第一師の教証になります。

 「述曰。一期の生死に倶に六識無し。故に常無と言う。少しく有るに非る故に、常は一切の時の義なり。「聖教に彼には転識なしと説けるが故に」とは、即ち対法第二と顕揚第一と五蘊とに、みな無想に心なしといえり。この中にもまた第六意識は無想天に生じ、竟(つい)に起こらずと説けるが故に。定めて一期にみな無心なりと言わずと雖も、然も総じて、彼に生じ、第六の識心なしと説けるが故に、生にも死にも無心なり。若し爾らずんば、論に初後には有心、中間には無心なりと分別すべきなり」(『論』第七本・十左)と。

無想天に生まれると言う事が、ニルバーナの境地なのだというわけです。涅槃だと。そこでは一切の時に意識は常無であると。「一期にみな無心」であるというのが第一師の説になります。

        


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