唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (89) ・ 倶有依 (65) 護法の正義を述べる、その(19)

2011-04-29 16:03:06 | 増上縁依(倶有依)

 ー 六識の倶有依について、その(3) 聖教との相違を会通する。 ー

 「聖教に、唯第七に依るとのみ説けるは、染浄依なるが故に、同じく転識に摂め、近くして、相順せるが故に」(『論』第四・二十左)

 (聖教に第六識は唯第七識に依るとのみ説かれているのは、第七識は第六識の染浄依だからであり、第七識は第六識と同じく転識の一種であり、その理由は第七識は第六識に近いからであり、相順するからである。)

 「述して曰く、染浄依なるを以ての故に、所以は前の如し、一なり。同じく転識に摂む、二なり。近は三なり。相順と云うは、多く意識を引いて染汚の執等を起せしむること第七識に由ってなり。故に相順と言うは倶に計度するが故なり。第八の如きには非ず、四なり。所以に第八をば有る処に説かず。」(『述記』第四末・九十五右) 

 『述記』によりますと、聖教(『対法論』巻第二・大正31・702a22・「意識者。謂依意縁法了別爲性。」)等に第六識の倶有依は第七識のみと説かれ、第八識が倶有依として説かれていないのは、(1)第七識が第六識の染浄依であること、(2)第七識と第六識は倶に転識であること、(3)第七識と第六識が近いこと、「彼の意識の与に近き所依たりという」と。近所依であることを顕します。(4)第七識と第六識は相順するということ、相順ということは、第七識も第六識も倶に計度分別をする識である。即ち第七識も第六識も倶に計度分別があるために我執・法執を起こすので相順という。以上の四義をもって第六識の倶有依としては第八識より第七識が勝れているという理由から聖教には第七識のみと説かれているのであって、第八識が第六識の倶有依ではないということを説くものではない、と述べています。

  •  計度分別(けたくふんべつ) - 三種分別の一つ。三種分別とは、自性分別・計度分別・随念分別をいう。自性分別は現在一刹那の事柄を、随念分別は過去の事柄を思考するのに対して、計度分別は過去・現在・未来にわたる事柄を思考(思い計り推量する)分別のこと。
  •  護法における前五識の倶有依は五色根・第六識・第七識・第八識であり、第六識の倶有依は第七識・第八識であることを説き、次に第七識の倶有依について説明します。第七識の倶有依は第八識であることを論証します。そして第八識の倶有依は第七識であることを説明します。

『唯識三十頌』聴記より

 「第七識は染浄依である。これは、経験は五識と六識で成り立つが、そういう経験には有漏、無漏ということがある。花を見た場合に、私は花を見たと、私がということがつく。だれかの経験である。だれかという色彩「がつく。私の経験は、私というものによって色彩づけられている。私というものは、単なる認識主観でない。もっとふかく行為の主体、意欲の主体である。

 同じ紅葉でも、老人の低徊(ていかい)去り難し、もう一度は逢えぬという思いがある。紅葉がだれの紅葉でもない紅葉はない。愛着をもって色彩づけられている。ものの愛されるのは、第六識でも愛されるが、第六識の場合はものを愛する。けれども紅葉を愛したというが、紅葉において自分を愛している。だから、種々のものを愛することを可能にする愛が無ければならぬ。末那識が染が浄かが、第六識の経験が染か浄かを決定する。それで染浄依という。」

                『安田理深選集』第三巻p30


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