「第八識は恒に末那識と倶時に転じる」と説かれている。又、第八識は「恒に染汚に依る」と説かれている。これは即ち末那識のことである、と。
これが護法の説を裏付ける根拠になるわけです。
「六十三に恒に末那と一(ひとし)く倶に転ずと説けるが故に。
又、蔵識は恒に染汚に依る、というは、即ち無性第三巻に「或いは有るが説いて言く、四煩悩と恒に相応する心を染汚依と名づく。」と云うが如し。世親の説に同なり。此に既に「恒に染汚に依る。」と言うに由る。知るべし、第八は七を以て依と為すということを。」(『述記』第四末・九十六右)
『瑜伽論』巻第六十三・五十一及び『無性摂論』巻第三の記述を証として挙げています。第八識と第七識は恒に間断することなく倶に転ず、と、説かれていることが護法説の正義であることの根拠になっているわけです。
次に浄月等・難陀等・安慧等の説との同異を説明します。
「前の第三師(浄月等)は初に七を以て八が依と為すという。量に云く、是れ識性なるが故に倶有依有るばし、或いは間断無き識に依るばし、識体間断すること無きが故に、第七の如くと。故に此の第八に倶有依有りというは前師の成立しつるが如し。此れ等の諸説において第三と及び第四との第八に依有り謂く第七と説けるは、皆是れ三位に第七識有りという。
前の第一師(難陀等)のは、無と言うは(第八識は所依無し)七と例を為すを以てなりと雖も、恒に相続すと言へり。故に依有ること無けれども亦是れ此れ(三位に第七有り)が流(たぐい)なり。
第二師(安慧等)の説は唯だ独り第八に依有りと許さざれば、即ち此れ三位に第七無しという家(け)なり。亦此の義を作すに相違無きが故に。
前の第二師の等の問ふらく、第八に既に依有り、謂く第七なりといはば、何が故ぞ三位に第七無しと説ける。即ち依の義不定になりぬるが故に」(『述記』)
「疏に「此の義を作すに相違無きが故に」とは、三位に七無しと云う家も、亦安慧に同じく八は無しと云うことを成ず。亦此の義を作すとは亦安慧も三位に七無しということを顕す。」(『演秘』第四本・三十六左)
第一師及び第三師の八識の倶有依説については既に述べていますが、安慧等は第八識に倶有依は無しと言う説を述べ、又三位に末那師という立場を採っているわけです。ですから、護法説に疑問を出され、『頌』に「阿羅漢と滅尽定と出世道とには(末那)有ること無し」(第七頌)と説かれているのは何故か、という問いが出されるわけです。既に護法の説及び論書にも「第八識は倶に第七識と転ず。」と述べられ、恒に末那識に依ると説かれていました。しかし、『頌』に「三位に末那無し」と説かれていることは、第七識は恒に転じているわけではないことになる。即ち第八識に対して第七識は不定依でり、倶有依とはならないと理解するべきであるのに対して、護法は第七識が第八識の倶有依であると主張するのは何故なのであろうか、という問いですね。この問いに答えているのが次の科段になります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます