二つに分けられて説明されています。
「前難を釈す」((問)「然るに此の中に言は何れの性に摂するや」という難について答える)。勤とは三性中のどの性になるのかという問いに対して答えているのです。
「勇とは精進なることを表して、諸の染法を簡ぶ、悍とは精純なることを表して、浄無記を簡ぶ、即ち精進をば、唯善性のみに摂むということを顕す。」(『論』第六・五右)
勇は精進である。 → 諸染法(悪と有覆無記)ではないことを明らかにする。
悍は精純(純粋な善)である。 → 浄無記(無覆無記)ではないことを明らかにする。無覆無記は浄ではあるが、精純ではない、これは正理に応じないからである、と。従って精とは名づけない、しかし染でもないことから純と名づけるのである、と述べられています。これらの理由によって、精進の本質的な働きは、唯善性であることを示しているのでしょう。
精進は善性であることを表しているのは、諸の染法や有覆無記は、人間として本来の居場所である涅槃界(聖者の身を成就する)に進むということからは退歩していることになり、進ということはいえないのですね、涅槃界に進むということは勇悍という精進をもって邁進すると云う意味合いが込められていると思います。
「論。勇表勝進至唯善性攝 述曰。下廣解有二。初釋前難。後辨差別。此初也 勇表念念高勝。非如染法。設雖増長。望諸善品。皆名爲退。亦不名進。無益進故 進謂進成聖者身故 悍表精純。簡四無記無覆淨也。彼雖加行作意修習。而非精純。不應正理故不名精。復非染故乍可名純。今此精純即總釋也。」(『述記』第六本下・十九右。大正43・437b)
(「述して曰く。下は、広く解するに二有り。初は前難を釈し、後は差別を弁ず。此れは初なり。勇は念々に高く勝るを表す。染法の設い増長すと雖も、諸の善品に望めて皆名づけて退と為す、亦進と名づけず。益進すること無きが故に。進とは謂く進んで聖者の身を成ずるが故に。
悍とは精純を表す。四無記の無覆の浄を簡ぶなり。彼は加行し作意し修習すと雖も、而も精純には非ず。正理に応ぜず。故に精と名づけず。復た染に非ざる故に、乍(たちまち)に純と名づくべし。今此の精純は即ち総釈なり。」)
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